再生への旅

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zoom RSS 願生娑婆国土

<<   作成日時 : 2018/04/30 07:13   >>

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嘆くかに藤垂れ空のただ青し 玉宗


親殺し、子殺しといった事件が時々世間の耳目にする。それぞれに伺い知れない事情があるのかもしれないが、気の重い話ではある。生まれ合わせたことへの思いが感謝となるか、呪詛となるか。子育ての難しさはそのまま親となることの難しさであることを痛感する。子の自立、親の自立、人としての自立とは如何にして成し遂げられるのだろうか。

人は何のためにこの世に生まれてくるのか?!産まれてくることに何か目的があるのか?若いころとは特にこのような人生の本質に迫る問い掛けが始まり、そして懊悩する。わが子にこのように問われたら皆さんはどのように答えられているだろうか。

「願生娑婆国土」というお示しがある。
命あるものはみな、自ら願い、志してこの娑婆世界に出現したのだとうこと。母のお腹を借りて私は、この娑婆と呼ばれる思い通りには行かぬ人の世に生まれ落ちたというのである。この余りにも一方的に約束された予定調和。

「私が私になるために」

それが私の答えです。
私とは何か?!それは当初からこうでなければならないといったものなのかどうか。

人生は「縁」と言われる力や支え合いを戴いて、私の世界を歩む道程ではなかろうか。
様々な「縁」が私を支えていることに気づくことの大事さを人は見逃しがちである。親、兄弟、隣人、友人、出会い、別れ、時間、空間、生き死に、等々。要するに世界が「縁」で構成されている訳であるから、「縁」を大事にすることは私自身を大事にすることにほかならない。

生きるとは「縁」を生きること。「縁」がいきること。「願生」なる人生の目的とは、「縁」そのものの様子以外のなにものでもない。ほかに如何なる答えが予定されているのか私には分からない。私は「縁」という「答え」の真っただ中に生まれ落ち、生きて、死んでゆく。

私のいのちは、私が思い込むほど小さな代物ではない。結果が期待されているわけでもない。蔑ろにされているわけでもない。あるがままだ。その辺の有難さ、難しさ、尊さ、不思議さ、醍醐味、面白さを私自身にも、家族にも伝えることができたらと願っている次第。合掌。







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「手出し」

行く春や手出しもならぬ肘枕

昭和なる逝きて帰らぬ日なりけり

天井の染み見てゐたり四月尽

仏見し眼に白き著莪の花

欲のなき父の植えたる海老根かな

荷風忌や裸電球四畳半

韜晦もならず踏みゆく春落葉

雲のこころ水の心や野に遊ぶ

濃く薄く楓若葉の重なれる

脚垂れて恨めしさうに蜂来たる

満を持し開き初めたる牡丹かな

春惜しむ岸を離るゝ思ひあり

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