再生への旅

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zoom RSS だれのために、何のために?!

<<   作成日時 : 2018/05/11 04:58   >>

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気がついてみればの都忘れかな 玉宗


私は自らその為すところの思いや動機を代弁するのに、「人のため」とか、「社会のため」とか、「組織のため」とか、「理想のため」とか、果ては「仏道のため」とか、ついつい口にするのだが、静かにわが心根を観察してみれば、それが、自己の見栄や保身や根深い拘りなど、欲の世界、自己愛の地平線上の話しに過ぎないのではないかと吾ことながらも猜疑心に苛まれることがよくある。

私の存在が疑いもなく「公」なるものであったならば憚ることはないのだが、我が身一人の満足のために為す事を、「何々のため」という隠れ蓑を借りて正当化しているのではないのか。おまえはそれでいいのか、という一人のお坊さんとしては勿論、一人の人間としても、いつのころからか知れない内なる声がある。公的なものへ尽くさなければならんとでもいうような私的な、余りにも私的な声。
 
確かに、すべては自己の世界の様子であり、その為したり為さなかったりするところの因果応報は全て自己の為と言って間違いではない理屈がある。然し、実際のところその人生とはある意味競争であるといっても差し支えないものだ。自己を生きることは競争ではないという私の提言も、他の世界と一体としての様子の上からのことである。

それにしてもだ。善も悪も、慢心も卑屈も、自惚れも、すべておのづからなるものではある。そのような代物をすべて受け入れる器の大きさ、深さ、度量があるには越したことはない。我が身を可愛がるといったことも自然な本能のなりゆきである。目くじら立てるような代物でもない。他を欺き自己を欺く、他を買被り自己を買被る。他を蔑ろにし自己を蔑ろにする。他を侮り自己を侮る。そのように、ついつい「閉ざされた世界」を持ちたがるのが問題なのではないか。実につまらない世界である。狭い世界である。発展的でない世界である。

人間界隈の実相には慢心も卑屈も愚痴も妄想も必要とされてはいない筈である。私がどう生きるかによって「縁」の価値が決まる。他者や外の世界はさもあらばあれ、徹底的に自己の実相に親しく生きていくのであるに越したことはない。一人の世界を愛しみ、惜しみ、解放する。どこまでもおのれむなしく生きる。煩悩の世界に住して煩悩を越える。

誰のために生きる?何のために生きる?!

答えは言うまでもない。自己のためである。それはだれ一人の例外もない事実だろう。問題はその自己の真相であり、自己がどこまでその真相に証契しているかだ。脱落しているかだ。それはどう見ても余人が窺い知れない領域である。なればこその救いであり、再生の契機なのだ。

「そのもの」には他と比較して争ったり、僻んだり、侮ったり、蔑んだり、傷つけたり、貪ったり、拘ったりする理由がない。肩書や名聞や利養など問題外である。「そのもの」として自己を生きることだけが肝要なのであり、それをしも出家というのではなかろうかと思っている次第。



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「界隈」

界隈に寺町野町葱坊主

朔太郎忌旅のこころに背広着て

宵越しの銭を叩くや初鰹

たかし忌や五月の朝の東雲の

雪を踏む音させ刻む祭鱧

遠目にも泰山木の花らしく

この辺り能登も南ぞ麦嵐

暇さうだから蕗採りにでも行かぬかと

亀の子や沖は何処と泪ぐみ

図体のはみ出してゐる夏蒲団

日の高きうちにと蛇は皮を脱ぎ

湧くやうに恨めしさうに栗の花

蚊喰鳥日暮れの空を掻き乱し

あえ吹くや外浦七浦能登の国

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