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zoom RSS ある仏弟子への手紙

<<   作成日時 : 2018/05/25 04:08   >>

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帰り道来た道茅花流しかな 玉宗

謹啓 時下初夏の候。

制中に入りましたね。
僧堂安居も七年目となり、愈々脚下照顧を忘れないように願っています。
前にも言ったように、自己主張しすぎないこと、負けてもいいのです。知ったかぶりせず、真っ直ぐに人と対し、自己に対してください。

精一杯生きることと見栄を張ることは土俵が違います。見栄や無知で、周りの人たちの顰蹙を買うことのないように。先走らず、そして侮らず、安居中はいつもでも、どこでも己を空しくして、自己の深みを探り、学び続けてほしいものです。

すべて自分の実物であり、道そのものの実物。自分持ちの見解を捨てる、自己を忘ずる体験によって、仏法が手に満ちるものと心得てください。我見を立てず、我見以前、妄想以前の自己の実物、本心に目覚めてください。それがあなたの本来の心の在り方です。 人が生きているということは、全て初めての体験、一度もやったことにない生活、古い体験に用はない。その時、そのことが在るだけ。

他者の出来不出来に振り回されることのないように。だれもがあなたと同じ内実をもっている訳でもないのですし、だれもがあなたと同じ能力で進退できる訳でもありません。どこまでもあなたの世界の事として充実させていかなければなりません。常に自己ひとりに切り込んでいかなければなりません。自己には厳しく、他にはやさしく、寛容に。

この初心を忘れることのないようにして下さい。初心の中での修行、菩提、涅槃の我らなのです。人が見ていようが見ていまいが、人として、仏弟子として、やるべきことはやり、してはならぬことは絶対しない、といった良心、誠実さに生きてほしいです。

堕落し、人生を投げ出し、明らめることは簡単です。いつでもできます。それでいいのですか?修行は一生のものです。完成といった妄想は懐かないことです。今しかない。今に承当する。今を使いきる、今を生き切るその繰り返し。それが修行であり、それを忘れたときから道は道でなくなっているのです。

何年安居を続けようが、その本質は常に「今、ここの、いのちの事実」に切実に承当するばかりなのだと思います。

今に生きず、よそ見をして右往左往することを妄想とは云うのです。それでいいのか?ということです。修行は自己に深まることです。今という自己の実物に承当することです。無心を身につけることです。欲を膨らますことではありません。肩書を欲しがることでもありません。社会の役に立ちたいといったことも今は望む必要もありません。

無一物をわがものとして大道を歩む力量を身にも心にも育んでください。自己を大事に、くれぐれも見当違いの修行をしないように祈ります。   

        大兄 明窓下    
                        玉宗 和南



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「草」

けふもまた一人草引くばかりなり

丈草が喪に侍りたる夏花とも

なけなしの風にゆらゆら小判草

昼寝覚め障子に移る草の影

草薙の風や剣と薫りけり

虎杖の草とも見えぬ花なりし

草の間に暮れ残る黄やあやめ草

草々の丈をきそへる安居かな

踏み込みし草の丈にも夏初め

草叢を抜きん出でたる夏薊

苜蓿や幼き夢の語り草

深草の流れを今に夏に籠り


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