輪島・鳳来山永福寺

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墓洗ふ不肖の弟子でありにけり 玉宗


私には六人の親がいる。
この世への橋渡しをした生みの親である父・山中信義、母・山中キゑ。仏弟子の世界へ誘ってくれた最初の得度の師匠授業師・板橋興宗禅師、奥さん。そして一人前の仏弟子として認めてくれた嗣法の本師・市堀孝之大和尚、養母。妻の親でもある。

その本師である市堀孝之大和尚のことを記しておきたい。
先師が亡くなったのは能登半島地震の前の年だった。平成18年1月28日示寂。明治43年生まれの満93歳。
現在私が兼務している輪島の永福寺を七十年近きに亘り住職として支えてきた。永福寺は約百年前まで門前の興禅寺の隣りにあった。本寺である大本山總持寺の大火や横浜への移転などの激動の時代に末寺も翻弄されたのである。

本師が記した永福寺移転合併記がある。
  

「阿弥陀仏堂並びに旧永福寺合併迄の記」

阿弥陀仏堂の前称は鳳来堂と称し、その昔誓願寺の本尊佛を守護せる。安置堂は小宇なりとも霊験明らかなること近郷の民草広大なる慈恩に浴せざる者なかりしが誓願寺廃絶後誰一人再興を発願するものなし。
降りて中御門天皇の享保三年戍戊(二一五年)輪島町の久保屋與四平氏六体の地蔵尊を石に刻して本尊佛脇立として三昧摩地に安置せり。

孝明天皇の安政年間に至り信者相謀りて鳳来山東北の麓荒蕪の地三百歩を開拓して明治六年漸く一宇を建立し誓願寺の遺佛を奉安し(明治八年五月二十三日)鳳来堂と名付け朝夕之を供養せり。
亦、如意輪観世音菩薩は誓願寺廃絶後住吉明神の社境に於いて一時崇め奉り、当国三十番札所として
順礼道者巡拝せり。

中略

明治六年に至り信者等の協力により一堂を建立し 霊験あらたかなる阿弥陀如来並びに地蔵尊を安置するも 堂守なきを憂い 明治七年に至り珠洲郡片岩村曹洞宗海蔵寺徒弟鈴木寛耕長老を迎えて堂守となす  
明治十五年十月二十六日堂守を退任す 海蔵寺住職福山真巌和尚同寺を隠居し代わりて鳳来堂の堂守に補せらる 真巌和尚信徒と相謀りて町内の寄付を募り更に一堂を建立す 

明治十六年春大本山総持寺禅師の代僧を得て入佛式を厳修せり 然れども単なる御堂にして寺号なきを憂い 茲に誓願寺復興の念漸く厚く、 明治十六年二月八日大本山総持寺へ上山し 御直末の一寺創立するの内諾を得るも其の後石川県令岩村高俊へ出願せしも規則に抵触するところありし故を以って許可せられざりき 依って明治十七年八月二十五日堂宇据居許可を出願せり 時の県令より下附せられて同日より阿弥陀佛堂と公称せり


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中略

同四十一年五月一日を以って石川県知事村上義雄より許可せらる。
寺籍は曹洞宗大本山総持寺直末、鳳来山永福寺と称し、位置を阿弥陀仏堂の現在地に据える  当該佛堂を修繕して本堂とし 庫裡山門等を建築して寺院の財産を具備するに至る 誓願寺の遺佛を奉安して永福寺の本尊佛となす 如意輪観世音菩薩は元より誓願寺の遺佛なれば永福寺にて管理し春秋二期盛大に観音祭りを厳修す
廃合に際しては旧永福寺の什物等は新永福寺に寄付することにし 境内地は借地なるを以って地主に返還す

檀信徒は門前村興禅寺等の各寺院へ編入なさしむ。
次いで永福寺開山の件に付き一同議謀の上六月十五日大本山総持寺貫主勅賜大円玄致禅師を開山として拝請願を届出せしが元より永福寺は傳法庵派にして開山は可屋良悦禅師なりと 同年七月二十三日付きで法地開山百衲玄秀和尚二世普参和尚、市堀文応和尚は第三世足るものと許可せらる  
明治四十一年五月一日移転認可を得たると共に旧永福寺は本山膝下を離れ山内寺院の格を解かれる。
同年八月十六日管区組入を認められ法地等級五十三級に査定せられ大本山総持寺直末となる 

多年の念願たる移転問題も幾多の困難を経て現在地に法憧を建て復興の宿志を貫徹するに至りしは佛の霊験に依り佛慈加護を得たる雖も信徒等の努力も無形ならず。日夜寝食を忘れ釈尊一茎草を念じて梵刹を建立するの漢、黒夜に寥々たる星を見るより明らかに、真に其の功労偉大と云わざるべけんや

                            昭和八年九月九日謹書  永福六世孝之



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輪島の地元信者の要請もあり現在の地に合併移転した。明治41年のことである。門前にあった頃のお檀家さんを興禅寺や本山に預け、永福寺は檀家も持たないまま寺格だけをもって輪島に乗り込んだのである。移転を要請した信者はもとより浄土宗や浄土真宗の門徒さんであり、わが寺を離れて永福寺の檀家になるようなことはなかった。先師もまたその志し強く、「小さくても本山直末だ。誇りをもって、お寺を護らなければならん。檀家など欲しがるでない。法輪転ずれば食輪転ず。なにも心配いらない。お坊さんとして真っ直ぐ生きて行けばいいのだ。」それが先師の口癖であった。未だに永福寺には檀家がない。

故・鷲見透玄祖院監院老師とも親しく、興禅寺の住席を譲るに際しては永福寺まで何度も足を運ばれたことを思い出す。先師は本山で数年お役を勤めたこともあったが、若いころから住職として苦労を重ねた叩き上げの住職であった。説教師ではなかったが、明治生まれの気風なのであろうか、筋を通さねば気が済まぬ方だった。しかし頑固者というほどでもなく、愚痴を言わず、家族思い、信者思いの人情家でもあった。長いこと民生委員を勤めたり、地域の為に尽力し、老若男女の町民に広く親しまれ信頼されていた。私など生涯真似の出来ない人徳である。


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震災の直前の涅槃の頃、先師も念願であった總持寺祖院に祠堂納骨し、御位牌も安置した。それから間もなくの能登半島地震である。位牌檀に祀られた御位牌はすべて倒れたという。それを聞いた養母は声をあげて泣いていた。幸い、御位牌は大した傷もなくもとの位置に安置された。今年から祖院も再建工事の本丸である本堂(大祖堂)の解体復旧工事が始まる。五、六年掛かる予定だという。總持寺をこよなく愛していた先師は被災した本山も見ることなく幽冥境を異にした。幸いであったと言うべきか、、、、全山に足場を組まれ解体されてゆく祖院を見たらやはり泣きだすに違いなかろうと思っている。
   



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この記事へのコメント

yoshiyoshi
2009年10月17日 07:42
お寺なんぞは千年安泰なぞと思っていましたが、
それなりに色んなことがあるのですねぇ、
空模様もやや下りかけてきたうです、

それらしく拝み太郎も衣装変え    よし
湘次
2009年10月17日 08:53
おはようございます
 6人の親のお話ためになります。
 育ててくれたり助けてくれたりの親は当然ですが
 精神的な支えの親の存在は大きいですね。
ナズナ
2009年10月17日 11:42
私の故郷にお寺が2軒あります
今は住職不在です
これからも不在でしょうね
よそから和尚様がきてくれるそうです
侘びしいことで、、
和尚様も村も共に生きていくのは大変なのですね
お姉さまのおられた川内町は、良いところだと思います、、お寺が結構ありましたね
時々、、町の店(マエダストアに出かけます、、何処かでお会いしているかもしれませんね)
遊子
2009年10月17日 19:52
・市堀孝之大和尚さん、柔和な人徳ぶりがお写真に出ていますね。
それにしても、6人の親とは、方丈さんは幸せな方です。ぽち。
市堀
2009年10月17日 20:06
よしさま
コメント、一句ありがとうございます。
そうなんです。けっこう苦労しながらお寺してます。
2,30年後にはお寺も統廃合されて現在の半分になるかもしれません。笑うに笑えず、泣くに泣けない?合掌
市堀
2009年10月17日 20:09
湘次さま
コメントありがとうございます。
宮本武蔵でしたか、出会う人、すべて師としたいところですね。合掌
市堀
2009年10月17日 20:15
ナズナさま
コメントありがとうございました。
川内町には都合3回しか行ってません。姉は病の身ながら、ときどき浜に出て故郷の北海道のことを話していたそうです。
これからもどうぞよろしく。合掌
「恐ろしき山の方より盆の月 玉宗」
市堀
2009年10月17日 20:20
遊子さま
コメントありがとうございます。
そうですね、幸せな人間ですね。つくづくめぐり合わせの幸い、不思議を感じています。6人の親がいなかったら今の私がいないことは日を見るよりも明らかです。感謝しなければなりません。合掌
ひよどり
2009年10月17日 20:25
6人の親御さんのお話、しっかり伺わせていただきました。
今の世の中、一人で生まれ、一人で育ってきたように思っている人たちが沢山おります。
心して生きたいと思います。
市堀
2009年10月17日 20:37
ひよどりさま
コメントありがとうございます。
このように気づかされるのに54年の人生が掛かったと言うことに気づかされます。親子として今生の一期一会を豊かなものにしてあげたかったと悔みます。合掌
柏樹窯
2009年10月18日 09:41
写真の「鳳来山」扁額はどなたの書ですか?

市堀
2009年10月18日 10:54
柏樹窯さま
山岡鉄舟です。合掌
清龍
2015年02月15日 19:29
義父市堀孝之和尚のお写真を見る度に、「恕」の文字を思い出します。お優しい、慈悲に富んだお顔です。

無為の刻永久の笑み観て春隣り

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