ああ、ご飯がこぼれるぅ~!

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 臘八の一灯冥き坐禅堂 玉宗


俳句の季語にもなっている「臘八会・ろうはちえ」。
お釈迦様がお悟りを開かれたのは12月8日の未明と伝えられている。臘八とは臘月八日の略である。禅宗ではこの故事に因んで、12月1日から8日払暁まで不眠不休の坐禅を中心とした行をする。これを「臘八接心」という。「接心・せっしん」は臘八以外にも僧堂によって、毎月数日間のものや、涅槃会報恩接心、断臂接心、夏季接心などいくつかある。


臘八の堂の静けさつたはりぬ 後藤夜半
臘八の巨いなる雲動きをり   中川宗淵
臘八の粥炊きにゆく星の下 玉宗


「接心」は坐禅を核にした行持であるが、坐りっ放しではない。一回40分から50分の坐禅を繰り返すのである。僧堂によって多少違うが、朝4時から夜9時までの間に一日十回から十五回程の坐禅が組み込まれている。最終日の七日は八日の明け方まで徹夜の坐禅となる。

基本的に接心中は坐禅は勿論、お経も、食事も、睡眠もすべて坐禅堂内で行われる。お経や食事の時も足を組んでいるので、坐禅と坐禅の合間の経行(きんひん)や便所や睡眠時以外は坐禅をしていることになる。

生まれて初めての四国瑞応寺での接心は只管足が痛かった。食事やお経の時は結跏趺坐でなくてもいいのだが、初心者のくせに見栄を張り、全ての坐禅を結跏趺坐で押し通したのがいけなかった。4日目頃から足の甲、膝、腰の痛みが尋常ではなくなってきた。
「坐禅は安楽の法門なり」と、ご開山様はお示しになっておられるのだが、雲水一年目の私にとって接心での坐禅は苦行であった。瑞応寺で初めて僧堂安居を正式に許された時、私はその嬉しさに不覚にも坐禅中に涙を流したものだったが、接心初体験では人知れず油汗を流していたのである。


しかし、初めての接心は痛いことばかりではなかった。新参は只、坐っていればよかったのであるが、どういう訳か坐禅をすると無性に腹が減るのである。作務をしているのでもない。じっとしているだけなのに、とにかく面白いように空腹感が湧いてきた。そして、というか、そういう訳で、淡白な三度三度の精進料理が、この上なく美味しく感じたものである。当に空前絶後の醍醐味。

で、元来食いしん坊万歳の私である。当時はまだ我慢することを知らなかった。ご飯は自分で盛るのではなく、浄人(じょうにん)という給仕係りにお椀を手渡してよそって貰う。その間合掌して待っているのである。お椀にご飯や汁をよそう時は7分か8分目にするのが礼儀作法であるが、まあ、基本的にはよそって貰う方の意思が尊重される。掌で「そのくらいで結構です。」という合図を送ると浄人は杓文字を置き、私に手渡す。と云うのが普通である。


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しかし、私は中々合図を送らなかった。
足は痛いが腹も減る。ああ、どうしたものか。坐禅も佳境に入ったが、空腹感も底を着いている。ああ、神様、仏さま。足に腹は代えられない。合掌したまま迷い続けていた。
古参である浄人も訝しい顔をするのであるが、いつまでたっても合図がないので、ご飯はみるみる磐梯山のような山盛り状態である。
古参が舌打ちをしたあと、廻りに聞こえないように言い出した。

「って、お前、いい加減にしろよ。ふざけやがって・・・」

「・・・・・・・・」

「もういいだろうって、言ってんだよ!」

「・・・・・・・」

「どうすんだよ、こんなてんこ盛りにして、、堂頭さんに見られたらどやされるぞ、、、」

「・・・・・・」

「な、もういいだろ。お願い勘弁して。 」

「はい、そのくらいで結構です。」と、口には出さず合図をした。

浄人が去った後の私の席の前には、スーパーの特売コーナーでパック詰め放題みたいな見苦しさが堂内の衆目に曝された。

みな、クスクス笑っている。運の悪いことに堂頭老師は私の斜め向かいに坐っておられる。ジロッと視線が光ったようだった。見るともなしに見られたようだ。

「玉宗和尚。気持はよく解るが、ん~ あとで典座へ行って再進するようになさい。ご飯が今にも零れそうじゃないか。お釈迦様は苦行の末に悟られて山を下りられるときは骨と皮だけだったのだよ。満腹し過ぎてはお釈迦さまに申し訳ないね。だいたい今時の雲水は、、、、、(以下、記憶にないので省略)」

「・・・・・」

ひたすら合掌して口宣を承っていた情けない私であった。


教訓!

『メタボ解消には真面目な坐禅が最適だ。』





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この記事へのコメント

tenjin95
2009年11月25日 06:26
> 管理人様

「飲食節あり」(「坐禅儀」巻)良い言葉です。しかし、摂心を経ると太ります。
陽だまり
2009年11月25日 07:17
市堀玉宗さん おはようございます!

臘八の一灯冥き坐禅堂 玉宗さん

結跏趺坐、あまり耳にしないことばですが、
座禅の基本なのですね・・。
この歳では座禅は無理ですが、玉宗さんの苦労
分かるような気がします。
山でしたら一日中歩けるのですがね(笑い)
湘次
2009年11月25日 08:29
おはようございます
 苦行も慣れてくると苦行ではなくなりますね。
 されど空腹感にはかないませんね。
愛媛子
2009年11月25日 08:37
お早う御座います。
今日は『臘八会』という新しい季語に接することが出来ました。
40代の頃、大洲市の禅寺様で、座禅の真似事をした事がありますが、中々合理的に出来ている事に感心いたしました。
しかし、座禅を組むと色々の妄想が湧き出て大変な思いを致しました。今となれば懐かしいひとこまです。
有難う御座いました
ぶぶ鳥
2009年11月25日 11:11
古参の雲水さんに何言われても
動じないほど空腹感…臘八会は、
すべてにおいて、すさまじいのですね。
yoshiyoshi
2009年11月25日 11:31
蝋月や食うも食えぬも我が事    よし

この世の事は
誰に責任の転嫁のしようも無いのですよねぇ、
因果応報、言葉ほどあんまり軽く無いカルマ。

摩訶迦葉寒に宿無き犬に説け   よし

相も変わらぬ意味不明ですんません、
んでおまけ、

面壁も氷柱の穿つ穴を見ず    よし

お察しの通り酔うて帰りました。(笑)

ルフレママ
2009年11月25日 13:11
8日間の苦行、辛いでしょうね。ただひたすら座禅、お腹すきますね。人間、空腹には叶いません。
『メタボ解消には真面目な坐禅が最適だ。』
はい、そのようにしましょうかね。
画を描くのも 結構お腹が空きます。・・・で飴玉を
ポケットに、、、慰めにしかなりませんが。
志村建世
2009年11月25日 17:23
集団疎開の給食を思い出しました。係りの女の子が、少しでも余計につけてくれると嬉しかったものです。ただし隣の友人の目線は厳しいものがありました。当時の言葉なら「戦地の兵隊さんを思え」ですね。
遊子
2009年11月26日 01:16
臘八の粥炊きにゆく星の下 玉宗

とても清々しい体験ですね。
しかし、人間、鍛えればどんなことでもできるのですね。
座禅をしてお腹が空く、・・・精神藤一をするからでしょうか。

市堀
2009年11月26日 05:37
皆様、コメントありがとうございます。合掌

tenjin95さま
「飲食節あり」ああ、そうでしたね。忘れていました。(笑)結局、人間「節」がなければなりませんね。合掌

陽だまりさま
結跏趺坐とは坐禅のときの足の組み方です。要はどっしりと、一度坐ったら二度と立たないぞ、みたいな安定した坐りができればいいのです。合掌

湘次さま
何を苦と感じるか、人様々でしょうが、「空腹に耐える」のは私には結構「苦」です。(笑)合掌

愛媛子さま
大洲市の禅寺と言えば思い出すお寺がありますが、、、<座禅を組むと色々の妄想が湧き出て大変な思いを致しました>よくわかります。そのまま続けておられればきっと自得する処があったかと、、合掌

ぶぶ鳥さま
臘八がすさまじい、のではなく、私の食欲がすさまじいと思わないではありません。(笑)合掌

よしさま
三句もありがとうございます。お仕事、ご苦労さまです。人には言えない御苦労がお有りだと思います。お互いに、ひょうひょうと風のようにまいりましょうか。(笑)合掌

ルフレママさま
絵を描くにも体力がいるでしょうね。太った画家と云うのは余りイメージ出来ません。(笑)合掌

市堀
2009年11月26日 05:38
志村建世さま
貧しさからの復興、それは自然なことでしたのでしょうね。しかし、戦後、節度なく人間の欲を追求したツケが現在の日本に廻って来たいるようにも思えます。合掌

遊子さま
精神統一しているからというより、余計なことをせず、そのまんまでい続けるからだと思います。まあ、何もしない坐禅にも体力がいるということですが。当たり前でしたね。(笑)合掌

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