歳末助け合い托鉢

画像


雪起し臍の奥より聞こえけり  玉宗


昨日の新聞に金沢大乗寺専門僧堂の「歳末助け合い托鉢」の記事が載っていた。
素足に草鞋履きの雲水さんたちが列をなして参道を下りて行く写真。頭陀袋には「歳末助け合い」と明記され、幟を先頭に歩いている。私の安居していた頃はしていなかった。記事を読むと今春から安居しているオーストラリア人の雲水さんも参加しているらしい。

海外の雲水さんと共に安居修行することは今では珍しくなくなっている。
兵庫の安泰寺などは日本人の方が少ないほどだ。多国籍軍と云っていいだろう。四季の気候は勿論、人情から生活習慣まで、様子の違う日本の風景が彼らにはどのように映っているのだろうか。ましてやお坊さんとしての日々は、自ら求めて来たとはいえ相当なカルチャーショックであっるに違いない。

「托鉢」なども不可思議な「行」の一つであろう。
しかし、「歳末助け合い托鉢」となるとどうであろうか。基本的にはボランテイア精神の延長である。クリスチャンの多い海外の人たちにとっては解りやすい領域ではないのだろうか。却って日本人の方がボランタリテイなことに慣れていない風にも見える。

「布施」ということでひとくくりに出来るとは思うのだが、お坊さんの托鉢はその浄財が全て生活や伽藍の維持管理の一助になっているのが慣習であった。お坊さんの社会参加の不十分さが指摘されて久しい。宗門内にもボランテイア組織が構成されている、その一方で差別や戦争への加担や不勉強・不作為をを糾弾されているのも事実である。

作為・不作為・未必・何必。社会への還元や貢献にも色々あるだろう。自律・他律、一概には言えないところがある。いずれにしても、「布施」は自発的なものでありたい。それが真の布施であろうと思う。ボランテイアも「修行」も支え支えられる双方が救われていなければならないのではないか、というのが私のスタンスである。

誰の為の、何のための「布施行」なのかと問うている私がいる。





よい記事と思われましたらポチっとお願い致します。合掌

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ


この記事へのコメント

陽だまり
2009年12月24日 06:37
市堀玉宗さん おはようございます!

雪起し臍の奥より聞こえけり  玉宗さん

「歳末助け合い托鉢」について

>「布施」は自発的なものでありたい。
それが真の布施であろうと思う。
私も同じですよ。

お坊さんも忙しいのでしょうが、
やはり地区での祭り、催しものに
参加して、仲間になって貰いたい
ものですね。
托鉢だけでは人の心は動きません。

私も忙しいですが、身を切ってボランテア
活動しています。
湘次
2009年12月24日 08:24
働く人ばかりでなくお寺も国際色豊かなのですね。
やはり宗教は不思議な力がありますね。
愛媛子
2009年12月24日 09:23
托鉢は、ボランティアの一つの形だと思います、
古典的に言うボランティアは、自発性、無償性、利他性に基く活動と言われるように明らかにそうだと思います。
日本の企業、宗教家そして個人のボランティアの心はこれから発展するのでしょうね。
托鉢をなさっている姿を見ますと頭が下がります。
そしてこれに応じた自分も何か善い事をした気持ちに為りますこれが大切な事と思います。
有難う御座いました。
ひよどり
2009年12月24日 10:12
お考えや懸念に同感です。
私は「布施行」についてよくは知っておりませんが、「歳末助け合い托鉢」には、いささか不思議な思いがします。
僧徒の皆さんが「歳末助け合い活動」に参画なさるのはいいことだと思います。
しかし、「托鉢」となると、「エッ?」と思ってしまいます。
社会参加も大賛成です。
そこまで賛成なのに、「歳末助け合い托鉢」に違和感を感じる私に対し、自分でまだ整理できていません。
ルフレママ
2009年12月24日 11:13
昨日の新聞、読みました。
難しい問題ですね。托鉢の「布施」と托鉢の「歳末助け合い」、意味合いがアレッ!って思います。歳末助け合いならわざわざ托鉢しなくても街頭で 声掛けしたらいいと思うのですが、・・・布施なさる方は戸惑うのじゃないかと・・・何はともあれ雲水さん達のご苦労お察しいたします。
市堀
2009年12月25日 08:34
{%BIGLOBEwebry%皆様、貴重なコメントありがとうございます。托鉢とボランテイア募金活動などを改めて考えさせられました。合掌

この記事へのトラックバック