生きているわたし

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水洟や沖遠くして愛深し 玉宗


「生きているわたし」


わたしは遠いところからやってきた

それはわたしの都合ではなかったけれど

それがなにか意図があってのことなのか

わたしには未だにわからない

人間として生まれ

こんな弱いどうしようもないわたしでも

わたしとして生まれたことに

価値があるのかないのか

神様から与えられた人間の条件

それは生きること

どんなにつらくても生き抜くことを

だれも咎めることはできない

絶望を希望に

孤独を寛容に

柵を絆に

憎悪を慈悲に変えることもできるかもしれない

いのちはきっと

闇を光に変えてくれる

そんな力をもっている

あたえられ生かされている命を

こころから信じて生き抜くことを

だれも邪魔することはできない

わたしを生きるのはわたし

もしかしたら

生きる価値は創り出すものであり

それこそが生きるということなのかもしれない

だれもわたしに代わって

神様との約束は果たしてくれない

だれもわたしに代わって

神様に逢ってはくれない

わたしは遠い闇からやってきた流星

一筋の淡い光となって

遠い闇の彼方へ去ってゆく








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この記事へのコメント

yoshiyoshi
2010年12月04日 05:35
木の葉降る大きなお寺に町屋にも   よし
hiro@岡山
2010年12月04日 18:52
ブログ時折拝読しております。
本日まで総持寺祖院にて参禅させていただいておりました。まだまだ地震の傷跡が残っているのですね。興禅寺さまの再生の二文字にも皆様のご苦労を察して余りあるものがありました。

水洟の作務衣の裾を濡らしつつ。


時節柄、風邪など召されませぬように。
市堀
2010年12月05日 17:14
 よしさま。一句ありがとうございます。
「木の葉降る空のしじまに堪えずして 玉宗」

 hiro@岡山さま。
はじめまして。コメントありがとうございます。
真山さんのところでお名前は目にしておりました。
祖院に参禅されていたのですね。興禅寺にもお立ち寄り戴いた様でありがとうございます。
祖院は新監院老師のもとでの弁道ですね。宗門的にも門町民にしても、安居修行する者たちにとっても、綿密にして道心篤く、而して柔和な老師の接化に期待するものが大であるとおもいます。
勿論、一般参禅にとっても。どうぞ、お坊さんに遠慮することなく、本物の道を求めて歩きご精進下さい。
参禅者もまた宗門の、国の宝であることに変わりはないと思っています。
ありがとうございます。
合掌

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