詩の領域/鎮魂・ひたすらなるもの

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冬の暮おろおろ歩くばかりなり 玉宗


毎回、俳句と詩篇を載せている即興詩人・安藤由人の「風に吹かれてhttp://shashin-haiku.jp/blog/148」から注目した作品をご紹介させていただく。
先ず、俳句。

雪靴のひたすら欲しきことのある よし
 
言うまでもなく「ひたすら」が一句の眼目である。この場合の「雪靴」とは東北などで使われた「藁靴」のようなものだろうか。読む者はどのようなイメージで鑑賞しても自由なのであるが、「藁靴」のような「郷愁」を誘う素材が相応しいのではないか。作者の多くの作品には、このような作者自身も窺い知れないのではないかと思われる様な、「ひたすら」なる郷愁が漂うている。氏の作品は即興性に優れている。ということは、俳諧の命である「いのちの輝き」を表現する可能性があるということだ。俳句は氏にとって一つの息次ぎのようなものではないか。止まる事を潔しとしない理由がそこにある。


次に詩篇。

 
「 あんちゃん 」

兄ちゃんは僕を置いて行った
何も言わずに遠く旅に出た
河で泳ぎ
神社の境内でソフトボールをした時も
メジロ獲りで山深く分け入っても
いつも二人で家に帰ったのに
一言も云わないで消えてしまった
いつも僕の故郷であったあんちゃんは
もう今はいない
物心付いた時から傍にいて呉れたのに
僕は置いて行かれた
途方に暮れた僕はといえば
兄ちゃんの好きだった
舟木一夫を口ずさむ
その人は昔し、と口ずさむ
今日も明日も口ずさむ



晦渋なところはひとつもない。人生がそうである様に、解りきったことがどうしてこんなに切なく空しいのだろう、と言いたげである。ここにあるのはひたすらなる郷愁のみではないか。表現することが作者の唯一にしてささやかな先に逝ったものたちへの鎮魂。極めて個人的な心情の吐露が、普遍的な「愛」を生み、心に響く。「ひたすら」なるものだけがその奇跡を為し得る。幸福はどれも似たりよったりだが、不幸は人の数ほどあるという。そうではあろうが、この美しい、非情な人生の哀切さを唄うことは凡庸ではない。
「今日も明日も口ずさむ」ここに詩人の良心、肉声がある。この一行を言いたいが為に作者はこの詩篇を紡んだに違いない。
それにしても遺された氏にとってこの世は余りにも救い難いもののようである。鎮魂は成就するだろうか?







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この記事へのコメント

yoshiyoshi
2011年01月30日 08:22
冬深むとぼじょは今も酔うたまま   よし

私の郷では兄のことを「ぼじょ」、
弟を「しゃち」と云います
例えば近所の徹さんのことは
「とぼじょ」なんです
みんな逝ってしまい、そろそろ
私の順番になろうとしておりまする
雪靴なんぞはとんと無縁の故郷で
今日に至りましたが
故にこそ雪靴への憧れは
私の中ではたまらなく大きいのです

市堀
2011年01月31日 20:18
 yoshiyoshiさま。
コメントありがとうございます。
ぼじょ、に、しゃち、ですか・・・同じ日本語とは思えないですね。  (笑)
そろそろ還暦ですね。まだまだ、世に憚りながら生き抜いてください。ネタ切れのときは又よろしくお願いします。
合掌

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