詩の領域/生きてゆく証

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臍の緒の行方も知れず冴返る 玉宗


詩集『愛 それによって』1974年初版。2008年復刻版が私の手元にある。

巻頭の作品に注目した。

「ひとつ」

一生をかけて たったひとつ
詩が一行でも 磨いた石が一つでも
 何でもかまわない
人間よりも もっと尊いものに
 捧げられる贈りものを
死ぬときに 胸に抱いていたい
 
              (昭和31年)


作者は「志村建世のブログ」多世代交流のブログ広場<http://pub.ne.jp/shimura/>でお馴染の志村氏である。
昭和31年といえば、氏が24歳前後であろう。人生を真摯に生きようとしている若者の感性が眩しい。省みて、わが青春と人生の歩みがどれほどの自己練磨の道程であったのか、と振り返させられた。若さとはなんであったのか?

意味のない人生というものに若者は敏感である。というより、人生の意味を先ず手探りしようとするところが若さにはある。人生行路を船出したばかりの人間にとって、行くべき人生の沖は夢でもあり闇でもあった。「人間よりももっと尊いものに」とは、すでに人間社会に絶望しているがごとくであるが、「絶望したことのない人間は信用できない」と云った識者もいた。美しい絶望を抱えて生きる。それもまた若者の特権であり、「生きてきた」ことへの感謝の中で死を迎えたいとは、若者の矜持であるのかもしれない。

「人間は努めているかぎり迷うに決まったものだ」とはゲーテの言葉だったろうか。答えの中に生まれ、生きていることに得心できない若き肉体と精神。「いのち」は空しい。若者はそれをだれよりも恐れる。

生きてゆく証しとしての「詩」。それだけが唯一若き作者の羅針盤であっただろうか。「言葉」が「詩」となって再生するとは、身にも心にも、人生にも寄り添う瞬間であり、言霊となる瞬間でもあろう。「詩」は「ひとつ」の「力」となる。「ひとつ」とは、数えられないということであろう。「ふたつ」を知らないとは「全」と同じことである。そのような「若い」「全きいのち」として氏は人生のベクトルを歩んで来られたにちがいない。それは今も続いている。

現在80歳になろうとしている氏であるが、磨かれた人生といった感を抱かせる。その已むことのない練磨と好奇心を支える精神の若さ。氏にとって、「捧げられるもの」は「ひとつ」に収斂しているのだろうか?或いは「ひとつ」に拡散しているのだろうか?ご清寧を祈らずにはいられない。





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この記事へのコメント

yoshiyoshi
2011年02月10日 08:35
詩の神といぶりがっこと新酒かな   よし
湘次
2011年02月10日 09:11
おはようございます
 迷いながらも生きていくのが楽しみですね。
2011年02月10日 10:10
ご引用いただき、光栄です。
 お訊ねの収斂か拡散かについては、いまだ定まりません。好奇心の寄り道を続けています。世の中、面白いことが多すぎるのです。
 なお、原作の5行目は「捧げられる贈りものを」となっております。ご訂正いただけましたら幸いです。当時は超越的なものへのあこがれが強かったのでしょう。
市堀
2011年02月11日 18:10
 yoshiyoshiさま。
いぶりがっこ、って秋田の漬物ですよね。「いぶり」は解りますが「がっこ」は何でしょうか?大根のことでしょうか?とても日本語とは思えません。(笑)

 湘次さま。
人生にあるのは迷いや苦の種ではなく、夢や楽の種であってほしいものですね。

 志村建世 さま。
コメント恐縮です。いつも精神の若さを感じています。人間・志村建世 万歳!と言えるような人生でありますように。
ご健勝を祈ります。
合掌

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