生きるとは?・目的と手段

画像


天上も宴果てしや花散らし 玉宗

人生には様々な目的がある。というより、人間が目的を欲している風でもある。目的は創り出すものか、見つけ出すものか、一体となるものか、なくてはならぬものなのか。

例えば、喰う為に生きるのか、生きるために喰うのかという形而下にして形而上の命題がある。生きることが目的なのか。喰うことが目的なのか。或いは共に何かのための手段なのか。

平和を目的に戦争をしなければ済まない人間の欲望がある。戦争は手段であり、平和という目的を実現するための必要欠くべからざる条件であるかの如くである。人を殺すのは平和という目的を正当化するための手段に過ぎないのだという。というより、それは手段を正当化するための目的ではないのか。否、もっといえば、真相は目的も手段も正当化という欲望の化けの皮なのではないか。

目的を達成するために手段というものがなければならないというのが世の常識である。目的と手段は切っても切れないかの如くである。切っても切れないとはどういうことか?
目的はそれ自体としてあったりなかったりするものではなく、手段との関わりのなかで生じたり滅したりする「縁」の実際ではなかろうか。目的と手段。それは両足を使って歩みを進めることに似ている。或いは双頭の蛇。

画像


「~のために」という正当な要求、義務責任、理想、正義、言い訳、言い逃れ、当為には枚挙に暇がない。おそらく人間の欲望の数ほどあるのではなかろうか?それ自体は別に驚くに値しない。
「禅」といえば「悟り」がつきもののようだが、悟りを目的とするのも欲の世界の話であろう。迷いがそうであるように、世の中には自分持ちの悟りに汲々諾々としておられる方もおられる。欲が悪いと言っているのではない。欲にもいろいろあるということだ。

仏道の最終にして本来の目的、それは自己に落ち着くことであろう。欲望の充足だけではなく、欲望を調えることによって展開する自己の世界がある。そのような本来の自己とは相入れない目的や手段の乖離。余りにも私的な領域で右往左往せず、ジタバタせず、身と心を調え、いのちを受け入れること。その手段、手掛かり、歩みとして「行」というものがあるのだと思う。寝ることも、顔を洗うことも、ご飯を戴くことも、挨拶することも、学ぶことも、自己を空しくすることも、生老病死、すべてそのような公なる自己の世界の荘厳である。荘厳、つまりありのままの輝きを放つということ。坐禅はその基本であるとされる。

画像


生きること、それは具体的にして創造的なものであろう。甲斐や苦楽があるのはそのためである。
世の中には生きる目的を失い絶望に追い遣られる人もいる。そのような方々は目的とともに手段を消失されているかのごとく見える。再生も又、具体的にして創造的なものであってこそ可能ではないのか?

生きること。それは目的であり手段である命そのもののベクトルである。それには人の手は勿論、神の手・仏の手を借りることもあってしかるべきではないのか。いのちが人の分別判断の都合の上だけでどうにかなったり、ならなかったりするものではないことを我々はもっと肝に銘じるべきではなかろうか?







記事と思われましたらポチっとお願い致します。合掌
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ

にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 人間・いのちへ



この記事へのコメント

yoshiyoshi
2011年04月24日 08:32
持ち主は何処へ行ったか海雲籠   よし
市堀
2011年04月25日 18:54
 よしさま。
もずく、いいですね。
肉体は生きると云う目的のための仮の宿。手段としての海雲籠のようなものでしょうか。
合掌

この記事へのトラックバック