俳句のメルトダウン・その2/芸と文学
踏ん張れる夢の力ぞ蝉の殻 玉宗
和倉温泉俳句大会が終了したあと、選者とNHK実行委員会スタッフ、市長をはじめ地元自治体の有志らが集い、懇親会が行われた。各自、スピーチがあり、私も毎年、言いたい放題のことを言い放っては席を濁してくる。当日の挨拶は地元のホトトギス系で石川県俳文学協会副会長でもある松本氏。続いて、茨木和生氏、大石悦子氏、豊田都峰氏、後藤立夫氏、そして私の順番であった。
今回の俳句大会に至るまでは、私の中では3月11日東日本大震災のことが念頭から離れなかった。和倉温泉俳句大会が能登半島地震復興記念として立ち上げられたこともあったし、今回の大会で選評のテーマをどうしようかという事前の協議の中でも、私は東日本大震災をはじめ、被災者への俳人の関わり方というものについて選者各自の思いを述べてはどうかと切り出した。結果として、私個人が選評の中でのべるということになり、統一テーマとしては「吟行での作句のあり方」についての見解を述べるということになった。
震災以後、俳句は被災者を励ませるか、被災者に寄り添えるか、被災地を元気づけることができるか、というような設問やコピーが耳目に飛び込んでくることがよくあった。今回も六千句近くの投句作品を読んでいてつくづく感じたことは、よくまあ、こんに様々な作品があるものだなという思いである。
似たり寄ったりと云えばそうとも言えるのだが、それにしても俳人とは徹頭徹尾自分の世界に拘るものだという見方もできよう。そして、それはそれでいいのだが、それにしてもその中で、切れば血の出るような、腸を絞るがごとき作品の少ないこと。大凡は、俳人特有の狭い、限られた世界の中での表現に満足しており、とても被災者への社会的意識が希薄であるということだ。一体、どこのだれが被災地を元気づけようなどと言い出したのだろうか?
大凡、このような思いを抱いて大会当日に臨んでいた私なのである。特選に選んだ句「被災地の土で育ちし燕の子」についての選評は省略する。さて、懇親会であるが、私の前に挨拶された後藤立夫氏は父が現「諷詠」主宰・後藤比奈夫、祖父が「滝の上に滝あらはれて落ちにけり」で有名な後藤夜半である。生粋のホトトギス系であり、立夫氏はホトトギス同人でもあり、現在は「諷詠」副主宰でもある。毎月多くの句会を指導しており、当然ごとく吟行も年季が入って譲れない作句信条をお持ちのように拝見させられた。その後藤立夫氏が挨拶の中で最後のほうで次のようなことを語っていた。
「というようなことで、父は俳句は芸であるということを言っております。私もそう思います。」
俳句が芸事の一面を持ち合わせていることを否定はしない。しかし、それがすべてだと言いきるには語るに落ちるというもではないだろうか?芸という習い事の側面とともに、文学という軸足も持ち合わせているのではなかろうかと私などは思っている。文学性とは自己の世界、その深さを拘り、切り込む可能性に賭けることであり、その自己たるや、芸事に浮き身を窶すこともあれば、哲学と云う自己存在の深さを訪ねることもできる。俳句は芸であり、俳句は文学でもある。又、俳句はそのどちらでもなく、どちらでもあり得る可能性の表現形態であるとも言えるだろう。
今回、選者として多くの俳句作品に接してみて、俳句は俳句をやっている者同士だけが共感し共鳴できる世界でもあることを痛感した。思えばそれはどんな文芸でも避けられない現実で、短詩形だけに限ったことではない。被災者といえども俳句を嗜む方だけが、それに反応するであろうし、それでいいのだろうとも思う。文芸を介しない人に寄り添い、励ます俳句というものが存在することは限りなく難しい現実がある。
それにしても、俳句界という限られた社会性というものを思わずにはいられない。たかが俳句、たかが俳人、されど俳句、されど俳人。短詩形ゆえに作者の生きる姿勢が如実に反映するという不思議な世界でもある。俳人として被災者に寄り添いたいという社会性も、芸として修練に浮き身を窶す精進も、表現の可能性を文学性と云う自己矛盾の世界を信じ切ることも、共に自己解放への道程であってほしい。
芸と文学性、その軸足がぶれたとき、俳句は俳句でなくなっているかもしれない。
咲いて虚しい待宵草や沖遠し
淋しくはないぞ鬼灯生らずとも
梵鐘の中は真っ暗雲の峰
逆鱗は羽抜鶏にもあるらしき
暗黒のまなこ二つや蛍狩
手をつなぐ母ゐて星が涼しくて
薔薇抱いて風の恋しい日なりけり
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この記事へのコメント
池田氏は現代俳句で活躍されている方ですね。
氏の名前はよく存じ上げていますが、作品を多くは知りません。
しかし、忘れちゃえ、といった句風の作品と受け取っています。
これは反戦歌でしょうか?草むす屍のまで切れるのでしょう。忘れてしまえと言っているのは、赤紙神風といった狂気だぞ、と草葉の陰の屍が訴えている、といったところでしょうか?
犠牲者まで忘れちゃえということではなかろうと推測します。
いづれにしても、一見無季俳句のようですが、草むす(草いきれ・夏の季語ではないのですが)でなんとか夏の情景がイメージできそうです。
「忘れちゃえ」以下の全部に掛るとしたら、様子が
変わってきそうです。愛国心やナショナリズム、英霊への傾斜を敬遠している自画像が見えます。
やはり反戦俳句でしょうね。
すくなくともリベラルな個人主義の領域が一句の眼目であると感じます。
なんだか駄弁、詭弁を弄しました。お見逃しください。(^^;
合掌