「さよならだけが人生だ」という生き方

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目瞑りて風の声聞く冬安居 玉宗

唐の于武陵の五言絶句「勧酒」を井伏鱒二が訳したことで有名である次の詩。


  この杯を受けてくれ 

  どうぞなみなみ注がしておくれ

  花に嵐のたとえもあるぞ

  さよならだけが人生だ



原詩は次のようなものである。

  勧君金屈巵  

  満酌不須辞  

  花発多風雨  

  人生足別離  


この詩は左遷された唐時代の官僚仲間への惜別の辞が込められているのだろう。起承転結のセオリーから云えば、詩の眼目は転ということになるのだろうか。「花に嵐」が人生の有為転変、諸行無常を象徴している。現実とはそんなものであると喩える奥ゆかしさ。人生への遠慮がある。もしかしたら神への遠慮かもしれない。
思う通りにならない人生の浮き沈み、人生の山河。それを歩いて来たものだけが共感し合える現実の冷徹さ。そして現実のなんともなさ、有難さ、柔軟さ。私が無ければなんともないという実相。それを受け入れる度量。花に嵐もあれば、花に慈愛の雨も降る。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もある。負けるが勝ちということもあるというものではないか。そのような現実の酒を飲み干すほどの器であってほしいという友の情愛。

それが結句の諦念へ続く。

「さよならだけが人生だ」

だから自暴自棄になれとか、人生とは愚の骨頂、無駄以外の何物でもないと言っているのではなかろう。私などはここに、人生への執着を捨てることの覚悟、一期一会の今を飲み干すこと以外に永遠に繋がる方便はないのだよ、といった潔さを感じる。

人生とは解らないものだと言えば一寸先も解らないが、大凡の見当は付き、行く末は見えていると言えばそう言えなくもない。生あるものは別離の宿命を逃れられないが、生ある限り出会いの連続であるとも言える。そして死もまた出会い。そのような私の命は、私の都合で授かったものではない。「向う側の都合」であるという思いが私にはある。私はその「都合」を知らない。ただ生かされて生きて行くばかりである。私という命の盃を飲み干すこと以外に「向う側」の期待に応え、或いは期待を外し、又は借りを返し、或いは責任を取って貰う方法もまた知らないのである。

「さよならだけが人生だ」

そのような前向きな生き方があっても可笑しくはないと思っている。






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