下萌ゆる春の息吹
やよ三月猫の狼藉始まりぬ 玉宗
昨日今日の日和で残雪も大分消えてきた輪島市内である。雪間から覗く草の緑もどことなく「くたくた」している。日陰育ちという感じ。これから春の日差しを浴び光合成をしてその色合いも新鮮味を増すことであろう。植物は光りを受けて再生の歩みを始める。
今年も北陸の冬は厳しいものだった。生きもの全てがそれに耐えて春を迎えようとしている。人間も又、春の陽気を受けてやる気が増すだろう。
昨日は弟子と寺報配り、そして残雪処理作務をして日中を過ごした。朝五時に坐禅、一時間超に及ぶ勤行、夜は八時から坐禅。私も僧堂を出て十年になる。弟子に伝授するに当たって、鐘や太鼓、板木の撞き方、応量器での食事の仕方、衣の着方、お袈裟の着方・畳み方、お辞儀や合掌の仕方、お拝の仕方、等々、進退作法を忘れていはしまいかと不安だったが、意外と覚えていた。身に付くという事実は確かにあるもので、二十年に及ぶ僧堂との関わりも徒や疎かならないものがあったことを再認識している。
「形」から入るのは仏道に限らないが、それにしても、出家して三十年に及ぶが、畢竟じて「形」の内実を充実させんが為の月日であり、「初心」に引っ張られ、押されての弁道であることに恥ずかしながら驚きを隠せない。
そのような歩みを可能にしたのも、仏道が一人で護持出来るものでなく、自律他律の二足歩行によって維持されるからであろう。
歩みを進めている今、ここが仏道が現成している当処なのであり、道は本来遠いとか近いとか、ベテランとか初心者とかで変質するものではない。修行に窮まりないとは、今を置いて道がないということを云っている。初心には初心の、形と歩みがあり、内実がある。ベテランにはベテランの初心と歩みがある。春には春の道があり、歩みがある。今がある。光りがある。萌ゆるものがある。迷悟がある。そのような今、ここを、自己の世界を共に生きている。それぞれがそれぞれであって何の邪魔をしない。成仏するとはそういうことだろう。
仏道は勿論、人生の醍醐味を知り、志を新たにする春ならではの息吹というものがある。
「如月尽」
その辺に残りし雪の汚れかな
庭に出て反古焚き春を燻れる
恋猫を汚点の如く避けて通る
葉表は光りに濡れて朝寝かな
出て歩く膝の軽さや下萌ゆる
なけなしの銭数へをる余寒かな
雪の上に落ちて色壊ゆ紅椿
冴返る堂内にゐて畏まる
神仏の奈落の如き春の闇
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王 門中にとどまりし福日