内外放寛/顔で判断するなと言われても・・
人はみな顔から暮れて夏夕べ 玉宗
私と夫人は見合い結婚である。知人から紹介された写真を見て先ず感じたのは「古風な顔やな・・」である。着物姿でしとやかさを気取ってはいるが、「おてんば娘に違いない・・」とも察したものだ。いづれにしても「俺にはない感性を持っていそうだな」と興味が湧いたのを今でも覚えている。一緒になって30年近くになるが、どちらかと言えば古風なものの考え方をする方だ。オテンバではない。友達の少ないのは私ほどではないが、親友はいるらしい。人に嫌われるような人間ではないようだ。芯からピュアーなところがある。時々、揄い過ぎて機嫌を損ねるとフリーズして手に負えないこともある。それでも辛抱強い、地味な方の人間であろう。人に騙されても騙すようなことはしない。
当然のように、結婚前の20代の私は第一印象でここまで判断はしていなかった。一般的に、女性は父親を、男性は母親のイメージに添った相手を恋愛対象に選ぶそうだが、どうなんだろう。言われてみれば私のささやかな女性遍歴も、実母に似た母性を慕って来たようにも思えなくない。(ここだけの話だが・・)
さて、前置きはそれくらいで、今日は「顔で人を判断するな!」と言ったことについて検証しておきたい。この科白は比較的若い人の決まり文句のようであるが、意外と、人生の酸いも甘いも嗅がされ、清濁併せ呑まされ、苦楽を味あわされて来た立派な大人にも多いのかもしれない。
私は単細胞という事もあるだろうが、先ず100%顔で判断しようとする癖がある。一事が万事、最初から最後まで、味噌もくそも、顔だけで判断している訳ではないが、先ず、見た目で相手を判断するのは動物的自衛本能みたいなもので不自然とも思えない。実際のところ、人の人生の濃さ、味わい、姿勢、虚実、心根といったものは如実に顔に現れるものではなかろうか?
社会を生きて行く上で、私などには動かし難いほど当てにしている真実である。全部とは言わないが、顔の表情で人は自分を表現している。表情と言うものが内から外へ向かっている以上、本人よりも見ている方が余程、観照できるのは至極当然の理であるとしなければなるまい。いくつになっても人は自分の顔に責任を負わされている。ときに責任放棄したかのような人に出くわすが、やはり「私は自分の顔に責任を持ちません」と顔が表現している。誤魔化しが利かない。思えば怖ろしくも、不思議なことではある。
この「先ず」というのが曲者なのだ。
人はその表情で相手の人間性といったものを相手の言葉や動作、沈黙といったものが織りなすオーラを判断材料に加味し、インプット・アウトプットしたりして反応している。顔は心の窓口であり、玄関であり、裏口であり、手鏡である。本人もそうだが、相手になっている私にとっても人の顔は私の心の窓口であり、玄関であり、裏口であり、手鏡である。そこを見逃しては元も子もない。
そしてもっと大事で忘れてならないのは、顔で判断するにしろ、しないにしろ、何で判断しても構わないが、判断、分別、感受、反応する私自身が身も心も解放されていなければならない。「内外放寛」っていうんですか。内から外から、そして外から内へと、風通しのよい空っぽさ加減、柔軟心、眼を要するのではなかろうか。こちら側に偏見や曇りやこだわりがあってはどんな判断も誤り、わが身贔屓、心贔屓になる御粗末さには違いない。
顔は人也。人は顔なり。人は人也。人は仏なり。どんなに安普請の鏡でも、清浄であればなんでもありのままに映り、そして光りを返すように、私は私の顔で世界と繋がり、表現して行かなくてはならない。又、自己を表現するのは顔だけではない。体全部で表現し、言葉でも沈黙でも、ものでも心でも、雰囲気でも、存在することでも、不在でも、生でも死でも、世界は全て自己を表現する調度なのかもしれない。最後は「デスマスク」という天下一品の作品に仕上げて神様に献上しよう。
神様じゃあるまいし、人を判断し、自己を判断する事は至難の業なのかもしれない。というか神様だって人間を見そこなったり、買被ったりしているように見えなくもない。
ランキング応援クリック
この記事へのコメント
燕は家主の私をどんな風に見ているんでしょうね。