立冬つれづれ
綿虫のいのちあやうきゆふまぐれ 玉宗
今日は立冬である。
畑をうろうろしていたら一匹綿虫が飛んでいた。雪虫とも呼ばれる謂わば冬の使者といったところか。夏の暑さに辟易してようやく秋になったかと思っていたら、もう冬である。今年は秋が短い。然し、冬も暖冬が予想されている。日本の四季の様子が変化しつつあるのだろうか。日の長さは変わらないが、年間を通じての平均温度は確実に上昇しているらしい。
喪中葉書もそろそろ送られてくるようになった。この一年の間に亡くなった知人、肉親を再確認させられる。父も母も兄も姉も、義父ももういない。この世に生きている者より、逝ってしまった者たちの方が圧倒的に多いという事実に気づく。自分はこの世に遺されたという感慨が私にはある。そして何れ私も灰になり土になり、先に逝った者たちと又同じ次元で巡り合うことだろう。それはある意味、頼もしいことでもあるような気がしないでもない。私の存在は決して孤独なものではなく、こうして生きている今この時も彼らの魂と共なのであると思いたい。
托鉢をしていても網代傘に受ける十一月の日差しは何やら頼りない。しかし、小春日は人生への御褒美のごとき温みも感じられる。そのような感傷に浸っておられるのも今のうちかもしれない。師走になればそんな余裕もなく走り廻らなければならないのだろうから。なんだかんだ言っても十一月は落ち着いた時間がある。それは自己や廻りを振り返る時間があるということでもあろう。秋も終り切らない、冬にもなり切らない、十一月という神様のいない、なんだか曖昧で味わい深い季節が日本にはある。
自然は変化するものであることは誰もが承知しているところであろうが、それは循環的変化とでも言うべきもののようだ。諸行無常は現象世界の認識に止まらず、今を真っ直ぐ戴いて生きる姿勢を示していなければならない。どのような現実の変化にも柔軟に対応できる所以である。季節の変化が愚痴にならないようにしたいものだ。
「行く秋」
晩菊や行方も知れぬ風の跡
身を投げて野菊の中に逝くもよし
晩菊に日はまた陰りはじめけり
ゆく秋の声聞くほかはなかりけり
而して妻とふたりや秋の果て
蛇穴にわれは褥に夢があり
紅葉狩いのち惜しむに似たりけり
湯に浸かるごとく焚火の輪に入れり
空稲架に仰ぐ夕星帰らむか
だれよりも妻がよろこぶ烏瓜
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