死と向き合う
起き臥して貝母の花にまみえけり 玉宗
先日、NHKテレビでタイトルは忘れたが、終末医療の現場に関した番組が放映されていた。病床などの事情で自宅で臨終を迎えることになった患者とその家族。都市や地方に関わらず、病院で息を引き取ることが多くなった現代社会であるが、家族の看護を受け、見守られ、自宅で亡くなる現実を改めて知らされたことである。
父の最後を看取った女性は他家に嫁いでいるのだが、母は病院に入院しており、実質的にひとり暮らしになっていた父の傍に寄り添ったのである。老衰してく父へ、不安を抱えながらも精一杯の看護をしている娘。やがて食欲もなくなり、一杯の水さえ呑みこむ力がなくなっていく。父と娘だけの時間が過ぎていった。そして臨終。
父が亡くなって一ヶ月後に後を追うように入院していた母も亡くなる。父と母を続けて見送った以下のような娘の言葉が印象的で忘れられない。
「父との最後の時間は充実していました。傍にいてあげられてよかったです。でも、もう少しなんとかして上げられたんじゃないかといった後悔のようなものもあります。この思いは暫く引き摺ることでしょうね。」
そのように語っていた女性の表情は実に穏やかで、そして神々しいものでさえあった。悩み迷いながらも、力を尽くした人間らしさがそこにはあった。いのちへの謙虚さ。生に真向かい、死に真向かうことの畏れ、勇気、そして生の実体を見極めたことの穏やかさ。
いのちが生と死を担った一枚岩であることを誰もが知っている。ところで、知ることで全てが片付くなら人生など意味もないに等しかろう。そう言いたくなるような人間社会の迷走がある。生に振り回され、死に振り回されている人間。生はそんなに解り切ったことだろうか、死はそんなに解り切ったことだろうか、と言いたくなる。
未だ死を知らず、いずくんぞ生を知らんや。「自然死」を学ぶ機会が少なくなった現代人。身近な人間の最後に寄り添い、死を看取るといった豊かな時間も赦されなくなった社会。この世は欲望の充足のために賑わしく、あの世とは死という不当に見舞われた世界となってしまった。不自然極まりないと言うほかない。
「磯開き」
干し若布潮目変わりし宵の風
竿をもて礁押し出す若布刈舟
さざ波に足浸す子や磯開
海光のいよよまぶしき磯開
飾らないところがどうもチューリップ
座禅草臍曲げてゐる背中とも
駆けだして転んでそこに母子草
もう誰も愛してくれず茎立ちぬ
厭な雲の近づく二人静かな
憂かりける世に咲く一人静かな
錨草尼にも髭のやうなもの
金鳳花向かうへ僧が逃げてゆく
十二単いささか混雑してをりぬ
父が植ゑしえびねぞ父の淋しさよ
ぎしぎしや傷舐めて雲追ひかけて
春蘭の衣の肌えや寄り添ひぬ
遠足を帰れば母のやさしさよ
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