帰単よろしゅう!!

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嘗てあり露草ほどの美しきもの 玉宗

お盆の暇を戴いていた弟子が僧堂へ帰った。
坐って半畳、寝て一畳と言われる堂内に割り当てられた雲水一人一人の居所を「単」という。そこへ戻るから「帰単」。今頃は山内の各寮へ「帰単」の挨拶に廻っていることであろう。

「帰単よろしゅう!」

なんだかんだ言っても師寮寺に居ると廻りも甘やかしてしまう。僧堂の集団生活、規律ある暮らしを少し離れてみて、その有難さ、非日常さ、ある意味異常さ、一大事さに思い当たることがあるだろう。一方で娑婆が余りにも人間らしさに偏重していることにも気づくことであろう。

世間も出世間も、人間、堕落する事は容易い。今すぐにだってできる。そこを踏ん張って理想の道へチャンネルを合わせる。仏道もまた生身の人間がすることである。間違ったり、怠けたりすることも大いにあり得ることは言うまでもない。言うまでもない事だから大目に見る。というつもりはない。言うまでもない人間性を棚上げにして、専ら仏道の身心に任せる。それが尊いのであり、ある意味選ばれた者の為せるところなのである。そのような世界に生きている自分の道に誇りを持てなくてどうして人天の導師足り得るだろう。

殊更に困難な道を選べとは言わないが、安易な道を選べともいうつもりは毛頭ない。生きるとは具体的なことである。具体的であると言う事は観念ではないということ、つまり甘くないということだ。仏道もまた日々の脚下の一大事因縁に生きること以外の何ものでもない。仏の生き方を学ぶ具体的な日常がそこにある。なければならない。自己が自己の命に深まる。安居とはそのような自己確立、自己再生の世界なのである。そのような仏道の初心に何度も立ち帰り、振り返り、歩みを続けてほしいと願うばかりである。

師匠である私には、再び離れて暮らす弟子の、修行の成就を祈る日々が始まっている。


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「葛の花」

葛咲いて己が葉影に埋もれけり

葛の葉に埋もれし能登の裾野かな

嘗てあり露草ほどの美しきもの

先立ちて飛んでみせたる飛蝗かな

少年老い易く蜻蛉の空を追うてゐる

誰も本気で遊んでくれず稻雀

二人ゐて一人ひとりの秋灯

波音を人魚と思ふ月夜かな

潮騒の絶へぬ近さに新松子

つくつく法師ほとほと遠き昨日今日

臍の穴いよいよ深き残暑かな










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