親子の世界
子に託す父の夢あり猫じやらし 玉宗
子供という存在は不思議なものである。その眼差しは親の存在を理解するのではなく、理解以前にまるごと受け入れているようなところがある。或いは、丸ごと受け入れようとしているようなところがある。親はそんな子供のこころに出会い、ときにうろたえるのである。だれもこんな風に私を見つめてくれる存在はないことに。
わが青春時代を顧みて思う事は、親への割り切れない反抗や同情が入り乱れた愛憎を抱いていたものである。家族というあたたかくも、ときに柵となる支え合い。感謝する日もあろう。怨むこともあろう。そのような最小にして最大の愛の暮らしの中で、人を学び、生を学び、死を学び、社会を学び、家族を学び、人生を学んでいく。
親は子を愛おしく、ときに哀れとさえ感じるものだ。自分のような親のもとに生れたことへの申し訳なさ。
同じように子も又親に対して同様の感情を抱いているに違いない。自分のような子を授かったことへの無力さ。
子のこころには親を支えてあげたいという心理が隠されているのではないか。子は親を捨てるに忍びないと思っているのかもしれない。
子の存在は全て親である私の生き方の反映、鏡である。家族という関わり合い、縁のなかで、子は親の、親は子の可能性を信じ、広い世界で生きてほしいとお互いに望んでいるのである。家族も又、乗り越えなければならない人生の壁である。仏弟子と雖もその例外ではない。
親が存在しなくなって子は気付くのである。だれもあんな風に私を愛してはくれなかったと。親は子を授かって気付くのである。子を自立させることが親の使命であることを。
親は子を、子は親を選べない。選べないからこそ、それはお互いに人生の宝なのである。宝をどう活かすことが出来るのか。それこそが私にとって人生の意義でもあろうし、神様の思し召しというようなものであろう。
「栗飯」
栗飯の栗剥く母の老いにけり
柿干して里の日射しを惜しみけり
あたら夜や能登の地酒を温めて
猿酒や杣とたがはぬ寺男
あぶな絵も見飽きにけりな秋の宿
鍵かけぬ暮しゆつくり紫蘇は実に
まなこうつろに茸狩りより戻りけり
素十忌の萩の放埒きはまれり
風がまづすゝきを弄りはじめけり
回覧板忘れてをれば小鳥来る
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この記事へのコメント
しかしながら、色々ありまして、予定日よりも大幅に早く産まれ、600グラムと700グラムで出てきました。まだ1週間にも満たないのですが、何度も生と死の狭間になりながら必死で生きています。伯母でありながらも一喜一憂し、落ち着かない日々を送っています。親となった妹夫婦はなお、ハラハラした日々を過ごしていると思います。
まだまだ当分は妹夫婦のみしか赤ちゃんの面会はできません。
幸い、我が家は両親の愛情いっぱいに育ちました。今は、妹が我が子に愛情をいっぱい注ぎ、それにこたえようとせんばかりに一生懸命生きている甥っ子たち。
未婚の私にはまだまだわからないことばかりですが、それでも、親子という今日のテーマに、涙が溢れました。