良寛と一茶

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日に解けし雪の雫や青木の実 玉宗


良寛は一茶より7年早く生まれて6年後に亡くなった。二人はこの世に65年間も一緒に住んでいたことになる。良寛は諸国修行ののち、1795年(寛政7年)、38歳で越後に帰る。翌年から国上五合庵に棲み、寓すること18年。更に乙子神社境内の草庵に約10年、最後は、三島郡島崎の木村元右衛門の庵に住んで74歳で息を引き取っている。一茶が柏原に帰ったのは50歳(1813年・文化10年)である。良寛が五合庵時代の56歳の頃である。一茶が亡くなったのは1813年文政10年、65歳である。良寛はこの時、島崎の草庵にいた。その間、15年の間、二人は北信濃と越後に隣接して住んでいた。

良寛は所謂、禅宗の中の曹洞宗の系譜に属するお坊さんであるが、果して良寛自身に宗派意識・セクト根性があったかと云えば、私はないと思う。あったのは、釈尊から道元禅師、そして良寛へと繋がる一筋の法脈。自己を照らし、今に輝く命の灯。それは宗派という結界を越えている。

まっさらな自己の命に連なるひろやかにして孤独な道。釈尊は「犀の角のように一人で歩め」と云った。自己が自己の法を求める道。それは看板を掲げたり、旗を振って歩むような世界ではなく、世の一隅に、ひそやかに、あるがままに生きる道ではなかったか。良寛には、宗派とか教条の中で生きてゆく「求心」さえ抜け落ちた解脱の生き様が感じられる。

一方の一茶には凡夫として生きる逞しさというようなものがある。
一茶が念仏や名号を唱えていたかどうか知らないが、どちらかと云えば妙好人とまではいかずとも、「一向宗門徒」の匂いがする。私などは川柳の先駆者と言ってもよさそうな彼の句に、どちらかと云えばときに理屈めいた響きさえ感じることがある。そこには、俳諧に遊び、あなた任せの世界に生きる苦労人一茶の、どこまでも凡愚な人間であろうとする、ふてぶてしさがあるのではないか。一茶にも又、良寛とは違った形で「求心」を捨て去った生きざまが窺えるのだ。

思えば、命生きることに宗派も糸瓜もない。良寛はひとりの出家者として、一茶はひとりの世俗者として、ともにその生涯を生き抜いた。私にはそのことが限りなく尊く、輝いて見える


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「遠く」

東雲や遠くに雪を掻く声す 

侘助やものみな遠くなりにけり

クリスマスローズ愛されゐて不安

南天の実の落つ雪のくぼみかな

日に解けし雪の雫や青木の実

霜まとひ壊れさうなる冬薔薇

暮れ残るやうにも咲きし八つ手かな

褒められも貶されもせず蜜柑剥く

霙がちなる雨に色濃き龍の玉

遠くより日の差してゐる冬芽かな

しずり雪枯山吹の枝を噛み

見えてゐる星の遠くて寒かりき



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