追悼「金子兜太、皆子の面影」
今頃は皆子に詫びを梅見月 玉宗
三月一日、二日と金子兜太先生の通夜、葬儀が執り行われた。
近親者のみということで遠慮したのではあったが、聞けば結構な出席者だったらしく、俳句関係の方々も多くいらしていたようだ。お話や写真をみるにつけて、四の五の言わずに駆けつければよかったと悔やんだりしている。いつもこんな調子で出会いや別れをすれ違うような生き方をしている。われながら懲りない男ではある。まあ、しょうがない。このような人間であることも理解していた節のある兜太先生ではあった。
そういうことで金子先生の葬儀には出れなかったので亡くなってから昨日の葬儀が終るまで、自坊の毎朝の勤行で回向を続けていたのである。
愛妻の死を乗り越えどっしりと生きていた兜太先生。自宅の書斎の前に広がる庭も今では森のようになっていることであろう。木々には二人の魂が宿っている。あらゆる生き物が兜太の創造力を高めて来た。「土に生きなければ、あなたは駄目になる」という夫人の言葉は「生の俳人・金子兜太」の生きる姿勢を決定付ける後押しとなった。
若き兜太は昭和十九年、二十五才で出征し、トラック島での過酷な戦争体験を生き抜き戦後秩父に戻り、町の目医者の娘落合皆子と出合う。その無邪気とも言える明るい女性の感性が、戦争を潜り抜け鬱々と生きていた兜太にはキラキラと輝く存在であった。昭和二十三年に結婚。一人息子に「真土」と名付けるふたり。その頃から皆子も俳句を始める。戦後の「風」に所属し、結社賞を受賞。二人は最初から最後まで互いの感性を大切にし合う創作上のパートナーでもあった。
五十代の頃、寝床での二人の会話がある。
「あなたは、何を目的に生きていますか?ごく、素朴なところで、」
「ここに二人の人間がいて、まっとうに生きていた。ということだけでよかろう。長く、まっとうに生きたい」
兜太は野性味に溢れた自然児のように思われているが、情の濃やかな人間でもある。そこにはおっとりとしているようで芯の強い妻である夫人の他者が覗い知れない夫への心の通い合いと葛藤があったに違いない。平成九年皆子は腎臓癌を告知される。兜太は述懐するのである。
「皆子が私に言うんですよ。腎臓癌というものは心労によるものが原因であることが多いそうですね。あなたは私に苦労を掛けました。率直に言って、あなたの責任だと思っていいですか?ってね。まあ、笑いながら言うんだけれどね。私は、ああ、それでいいよ。俺もそう思っている。俺の責任だということにすれば、さっぱりするだろう。なにくそと思って、闘病してほしいという思いがあったな。強く生きて貰いたいという・・・」
二人の九年に及ぶ生きるための闘いが始まっていた。そんな日々の中で曼珠沙華は二人にとって特別な花としてあった。因みに、兜太には若き日の「秩父の子どれも腹出し曼珠沙華 兜太」という無防備に明るい自然児然たる有名な先行句がある。
闘病の真っ只中であった皆子は、ある日、庭の曼珠沙華を見て、思いのたけを絞り出すように、「曼荼羅曼珠沙華」として四十句余の曼珠沙華の群作を作る。表現することにより、前向き生きようとしていたのだった。花に、俳句に救われる奇跡を歩んでいたのである。
雨の香のたちこめてくる曼珠沙華
移りゆき見えてくるもの曼珠沙華
涙溢れる天蓋の曼珠沙華
骨のあらわに癒えてゆく日々曼珠沙華
なつかしきもの土の花曼珠沙華
胸に置き乳房かと思う曼珠沙華
鳥はさえずる光りなり曼珠沙華
兜太も又、そんな夫人へ
「闘病の気韻の花びらを積みて 兜太」
という一句をものにする。ここには、俳句を作ることによって病にうちかってほしいという思いが流れていよう。
「夫は遠くにいつも遠くに鱗雲 皆子」
闘病中の様々な心模様も、生きる気力を振り絞っている夫人の姿として喜ぶ兜太。ある日、皆子が入院している近くで講演することがあった。皆子は兜太に知られぬように病院を抜け出し、会場の隅で誰にも気付かれぬ様に聞いていた。兜太もまた皆子がいるとは知らなかった。彼はそこで自分の皆子への想い、情を人前で熱く語ったという。
「自分は家内を愛している」と。
皆子は二人の縁の強さ、深さを改めて感じたらしい。次の一句を認めた。
「木の実たち金剛の紐で繋がり 皆子」
平成十八年三月二日、金子皆子永眠。告知から九年、皆子は兜太と共に俳句を作り続け生き抜いた。
兜太が夫人への想いを詠んだ句がある。
「妻と見ていた原郷の月曼珠沙華 兜太」
曼珠沙華は皆子に生きる気力を取り戻させた花でもあった。そしてそれは、二人が共に生きた故郷・秩父の花でもあり、人生を生きぬく度に咲いていた原郷の花でもあっただろう。そのような余人の覗い知れない二人の心に息づく、懐かしい風景がある。その原郷の月を仰ぐ人は夫人より他にいなのだという。ここには若き日のような手放しの無邪気さはないが、人としてまっとうに生きて来た兜太の、ひとりごころとふたりごころに通じる情の味わいがある。
平成21年に興禅寺に来て頂いた折には、往年と変わらぬ、颯爽とした姿に恐れ入ったものだったが、皆子夫人との永別から三年の月日であったことを思えば、未だ胸奥に夫人への想いが燠のように灯り続けていたのには違いない。私がお悔みを申しあげると兜太先生は言ったものだった。
「ありがとう。皆子も君がお寺を再建し、立派なお坊さんになってくれたことを喜んでいるだろう。体を大事に、無理なく生きていきなさい。無理なく、自然にな」
亡くなる前年まで毎週六千句にも及ぶ投句がある朝日俳壇の選句をされていた兜太先生。年齢的にみればもう若いものに譲ってもいいのだが、そう思うと愈々譲りたくない、死ぬまでやると仰っていた先生。書斎の前に広がる森のような庭からも、家族からも、亡くなって行った者からも、勿論、俳句からも、すべてのものから力を貰い、今をどっしりと生きていた金子兜太。
嘗て「91歳の目標は何ですか?」という問いかけに先生は次のように応えていた。
「そんなものはねえっちゃ。んなものはねえんだよ。ただ、こうなったんだってことなんだよ。要するに、その辺にたって立ち小便しているのと同じこっちゃ。」
原郷をまっとうに生きる自然児・金子兜太は死ぬまで健在であった。皆子がそうであったように、ここには自己の人生は自己の自問自答という創造物であるという矜持がある。文学者魂がある。
謹んで兜太、皆子ご夫妻の人生に合掌申し上げる。
「遥拝二十句」
生きてあれば死もいとはざる桜かな
龍天に登り消えゆく水脈の果て
狼を祀り三峰霞みけり
春ひとり泉下の客を拝しけり
死は生の褒美の如し長閑にも
兜太なく皆子なかりし遅日かな
春月のまどかなるさへ腑に落ちず
長瀞の巌に月の百千鳥
面影や朧ながらも遥かながらも
皆野なる野に遊びたることなどを
木の芽吹く風のやうなる旅人かな
今頃は皆子に詫びを梅見月
死ぬる世や春の夢より覚めてなほ
全うに生きよと鳥は雲に入り
雲とゆく秩父遍路の淋しさよ
春駒の豊かなうんち兜太も喜ぶ
漂泊の果てなる雪の別れかな
がうがうと月を揺るがす涅槃西風
音もなく涅槃の雨が降るばかり
生きてゆく二人の雛を飾りけり
この記事へのコメント
一昨日検索から、こちらの記事を興味深く拝見いたしました。
またいつかすぐ読めるようにと、今朝、私のブログ記事に無断で、リンクを貼りました。本来は、貼る前に許可のお伺いをするべきなのですが、エネルギーのあるうちにと、勢いで記事を書いてしまいました。
記事はこちらです。
楽しいことではなく、嬉しくなることをする
https://kusakisora2.exblog.jp/27524622/
記事を書いたあと一休みして今、お伺いした次第です。
リンクを貼ってよろしかったでしょうか?
もしお気がすすまなければ、削除いたします。
お忙しい中、申し訳ありませんが、お返事をいただければ幸いです。空。