再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS 裸のお坊様?!

<<   作成日時 : 2018/07/15 04:58   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


緑陰に仏の遊びしてゐたる 玉宗


一休禅師の逸話に金襴のお袈裟に惑わされる民衆の愚を諭されているものがあった。お袈裟の色に迷わされるのはいつの時代も同じなのかもしれない。見栄えよき有難いものを求めたがる一般の心理がだれにでもある。翻ってお坊さんもそのような心理は持ち合わせていないだろうか。人のことは言うまい。私自身の中に自己に嵩を着せたがる心理がないかどうか。

お釈迦様は金襴衣など掛けなかった。それどころか、「糞雑衣」と呼ばれる壊色の布を再利用し、身につけていらした。金襴でも黒でも衣の色に左右されない、肩書きや毀誉褒貶に浮足立たない生き方。煩悩にぶれない、柔軟にして、力強い、そのようなスタンスの、いのち実物としてのありのままな生き方。

「実相」は私の都合ではない。私の選り好みや作為でどうにかなるものでもない無為自然の世界がある。然し、人の毀誉褒貶に揺れ動く私がいる。余りにも親しすぎる人間らしさ。人間らしさを越えなければならない。一体でなくなった現実を、自己を、他者を、ありのままに見、聞き、感じ、生きることの難しさ。

仏法とは相対的意味づけではなく、「いのちの絶対性」に生きている事実に寄り添うことを理想としている。
実相というそのものの仏道とは竟にそのような「ありのままへ深まる」ということであろう。善悪や煩悩・欲望の彼岸にあるいのちそのものの輝き、闇、謎、豊饒さ、広やかさ、なんともなさ、知足がある。ありのままがある。

その様な事からしても、仏道とはいのちに何かを付けたしたり、差し引いたり、特権を与えたりすることではない。生老病死を生老病死として、諸行無常を諸行無常として、今を今として、自己を自己としてすべて引受ける。そのような柔軟にして、無心なるなんともない本来性を生きることにほかならない。自己を偶像化する世界とは対極にあるものだろう。

自分持ちの幻想をうち破らなければ、裸のお坊さんに成り下がるのは目に見えている。



画像


「水」

義に生きる男に水を売りにけり

愛されてやがてつまらぬ水中花

弾けたる声も眩しき水遊び

逃げ惑ふ母の背中へ水鉄砲

腰浮かせ水面窺ふ箱眼鏡

さつきまで金魚売りたる水溜り

バタフライ飛んで火に入る水の中

平泳ぎまなこ濡らさぬやうにして

背泳ぎや呑気に空を仰ぎつゝ

遠泳の水引き摺りて上がるなり

クロールやときどき腋を嗅ぐやうに

夕暮れはあきらめやすし涼むなり

水臭き夕べとなりし端居かな

手花火の弾けて水に消ゆる音


画像



「方丈二十句」

方丈に裏表なし風通す

虫干の中の艶書を拾ひ読み

不立文字教外別伝紙魚太り

夏蝶のひとたび入りて出てゆきぬ

初蝉や瘡蓋剥がしゐたるとき

露涼しさながら死出のあさぼらけ

徒食して濁世の汗を拭ひけり

炎天の首より垂れし頭陀袋

緑陰に逃げ果せたる貌をして

眩しさや夢もうつつも簾越し

一隅にうち捨てられし三尺寝

光りつつ薫りつ風のさざ波し

梢吹く風のあるばかり昼寝覚

解夏の僧らしきが切手舐めてをり

裸になれば人間臭き典座かな

生きながら北を枕の涼しさよ

飯の汗一人暮らしの気楽さの

遠雷を聞きとどめたる足裏かな

蚊遣火や夕餉済みたる気怠さの

不束な夢も聊か籠枕





テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
裸のお坊様?! 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる