再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS  施食会に当たっての雑感

<<   作成日時 : 2018/08/03 05:06   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


しんとして人の行き交ふ施餓鬼寺 玉宗


今日は興禅寺の施食会法要である。
いつのころからか「施餓鬼」ではなく「施食」と言い慣わすことに相成った宗門。同じ禅宗でも臨済宗は今も「施餓鬼」を通していると聞き及んでいるが、ほんとかな。宗門が「施食」に統一したのには「差別問題」への宗門的見地からの対応だったのだろう。要するに「餓鬼」という言葉が「差別的表現」とされたからに他ならない。

ところで、六道とは、仏教において、衆生がその業の結果として輪廻転生する6種の世界(あるいは境涯)のこと。 六趣、六界ともいう。 六道のうち、天道、人間道、修羅道を三善趣(三善道)といい、畜生道、餓鬼道、地獄道を三悪趣(三悪道)という、といった解釈が一般的だが、宗門は此処に於いても「餓鬼道」という表現を否認したのだろうか。だろうかなどと他人事みたいな物言いで恐縮するのではあるが、不勉強の誹りを甘受する上でいうのであるが、まさか「施食道」と言い直しているとも思えない。寡聞にして承知していないことを告白しておこう。

どうなんだろうね、こういう差別用語への対応というか、言葉と本質との真相といった事について、宗教者は那辺に体重を掛けていきているのだろうかと思わないではない。

私などは「餓鬼」という言葉に「執着を已めない、煩悩の炎に焼かれているかの如き人間の在り様を象徴しての表現だと捉えている。あちらの世界の話ではなく、まずもって、今、ここに生きている娑婆世界でのことなのだと自問自答したい次第。

人様のことはどうでもいい。私の中に「餓鬼」が巣食ってはいないか。六道輪廻を繰り返してはいないかどうか、そのような自問自答こそが仏道だといった矜持がある。言葉はこころの器であるが、言葉も、こころも、自由自在であろう。というか、言葉はあるべきこころ、内実を求めて已まない。こころ、内実も又、器、かたちを求めて已まない。共に象徴性をその本質としているのではないかな。どちらか一方に拘り、身動きがとれなくなる、それこそが六道輪廻といった行き詰まりの世界ではないのかな。

「施餓鬼」を「施食会」と言い換えたことで、私の中の「貪るこころ」が変質するのかどうか。生き残った者や亡者への寄り添い方に変化が生ずるのかどうか。諸行無常を諸行無常としてありのままに生きていけるのかどうか。頗る心許無く、そして、なんだか本末転倒の観が否めないでいることを告白して置こう。

現代人は言葉の本質、つまり感性をどこかに置き忘れてきたのだろうか。日本人の感性が変質したことを痛切に問い質したい思いに駆られる。



画像


「虚ろ」

虚ろなるこの世のかろさ蝉の殻

明日知れぬ男に水を振る舞へり

雨乞をしてくれぬかと虚ろにも

暑くて暑くて湯気の心地がしてならぬ

すててこや国を憂ひて余りあり

もう誰も褒めてはくれぬ裸にて

昼寝覚め夢もうつつもみな虚ろ

また一人晩夏の浜に来て惜しむ

抜きん出て向日葵空に果てもなし

草笛や虚ろに遠きまなざしの



画像


「夜」

めくるめく記憶八月来たりけり

寝冷して萎えたり草の如きにも

素麺や夫婦暮らしも板につき

ソフトクリーム一口舐めて手渡しぬ

飯の汗二十日鼠の出る頃の

紫の夜の色茄子の一夜漬

ふるさとの夜の深さや虫送り

背なの子の石となりゆく旱星

帰省して実家のかろき布団かな

滴れる夜空へ梅を干しにけり

死ぬる世に寄り添ひ夜を濯ぐかな


画像



「三界」

父母の来し方行方蝉しぐれ

面影を頼りに摘める夏花かな

まだ青き風に出でたるねこじやらし

魂つどふ賑はひにあり稲の花

瓜茄子トマト地のもの仏前に

唐黍の髭のいろにも晩夏なる

母が待つうれしさ鬼灯手に提げて

しんとして人の行き交ふ施餓鬼寺

風死して空に影するものもなし

三界をふりさけみるや洗ひ髪


テーマ

注目テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
 施食会に当たっての雑感 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる