再生への旅

アクセスカウンタ

zoom RSS わが仏道

<<   作成日時 : 2018/08/19 04:25   >>

トラックバック 0 / コメント 0

画像


栗の実のまだやはらかき青さなる 玉宗

宗教とは何か?

それは畢竟、自己の命への寄り添いであろう。仏道とは、それを生涯をかけて学ぶ道程にほかならない。
自己の本来の命の輝きを受け入れ、寄り添う事ができなくて、どうして他者に寛容でいられるだろうか。
欲望に苛まれる人間。一度限りの人生をそのような生き方に終始していいのかと問われている。問われていることに目を逸らしてはいないか?

だれのものでもない、自己を限りとした常ならぬ命の今をだれもが生きている。勝ち負け、損得といった二見の世界の価値観の中で生きて行かざるを得ない宿命の我らではあるが、人間の尊厳、絶対的評価はそのような相対的価値観だけで決定されるものなのか。そうではないと仏道は教えている。それこそが仏道が宗教である所以ででもあろう。

宗教とは、諸行無常に代表される人生の不条理さの中で、ぶれることのない、確たる芯を自己の真っただ中に見出し、目覚め、戴いていこうとするもののことだ。それは宗派や教義以前のいのちの要求といってもいいもので、そういう次第であるなら無宗教で生きられると思うのは大いなる錯覚ということになる。

宗教は単なる気休めではなく、大いなる気休めであり、再生への契機でもある。煩悩を休するのだ。休することによって通じる世界に、人間はもっと謙虚であれと仏道は諭して已まない。休するとは越えることでもあろう。煩悩を越え、苦楽を越え、生死を越え、自他を越え、愛憎を越え、恩讐を越え、迷悟を越える。

越えるとは如何なることか?

私どもは「あの山を越えよう」と決めたとき、どのような行動に出るか。だれもが最初の一歩を踏み出す。一歩一歩と脚下を晦まさず、今、ここに目覚め、しっかりと踏みしめる。「あの山を越えよう」という目標以前の充実した今を限りと力を尽くしているそのような今、ここの様子があるばかりではないか。

それは今に救われている様子といってもいい。道の果てに救いがあるのではないという事。仏の方を向いて生きて行こうという目標がないのではない。目標に至る至らないといった妄想以前のいのちの充実、新鮮さ、かけがえのなさ、駆け引きのなさ、それこそが宗教の救い、宗教の宗教たる所以、面目ではないかと言いたい。

そして、そのようないのちの様子こそが越えている様子でもあろう。
そのようなことからすれば、私どもの日常はいつも超えている世界の様子ではないか。救われている命の事実。それを今とも言い、成仏とも言う。

いのちは一度だって迷ってはいなかった。生老病死その時その時、いつも妄想を越えて、今、ここにあるばかり。ありのままであるばかり。私どもが勝手に、妄想し、ないものねだりや拘りといった宙に浮い世界を生み出しでいるに過ぎないのではないのか。

  (この記事続く)




画像



「声」

盆過ぎや萎えたる草の心地して

耳遠き母に色なき風聞こゆ

愛うすき胸に唖蝉ぶちあたる

最果ての枕に聞くや秋の声

胸板を叩く音して落つ木の実

早稲の香に噎ぶ故山を後にせり

雨過ぎし後の涼しさ虫の声

蓮は実に空張りつめてゆくばかり

梨剥くや別れ話に耳を貸し

謎解けぬままに老いたる千草かな


画像


「西方」

墓に来て鴉と遊ぶ初秋かな

掃苔の水すぐ渇く石の餓ゑ

西方に暇ありけり秋の風

さやけさに飯食ふことを忘れたる

花茗荷草葉の陰のあかるさの

死ぬる世を送り送られ草の秋

肩の荷を降ろせとばかり舞ふ蜻蛉

お茶を飲むだけの用事や秋うらら

かろがろと送行の荷を振り分けて

一枚の窓の向かうが秋めいて


画像



「調べ」

初風やそろそろ稲を刈るころの

野分過ぎいきなり朝の寒さかな

梢吹く風にも律の調べあり

梨といふ大きな露を啜るなり

秋扇年の頃なら七十の

海よりの風にばたつく秋簾

姫神の来る頃といふ秋の浜

腹を冷やすな風邪を引くなと飛ぶ竈馬

婿を取れ嫁を貰へと鳥渡る

奉る伴奏もなし七夜月




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
わが仏道 再生への旅/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる