再生への旅

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zoom RSS 畢竟して、という話

<<   作成日時 : 2018/10/02 06:27   >>

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野に咲いて光ぶちまけ女郎花 玉宗


二祖孤雲懐弉禅師が後世に書き留められた『正法眼蔵隋聞記』の中に、道元禅師自身の行状回顧の言葉として次のような一節が残されている。

七 我れ在宋の時禅院にして古人の語録を見し時
一日示ニ云ク、我レ在宋の時、禅院にして古人ノ語録を見シ時、ある西川の僧の道者にて有りしが、我レに問ウテ
 
 云ク、「なにの用ぞ。」

 云ク、「郷里に帰ツて人を化せん。」

 僧云ク、「なにの用ぞ。」

 云ク、「利生のためなり。」

 僧云ク、「畢竟じて何の用ぞ。」ト。云々


(ある日、教えて言われた。わたしが宋にいた時のこと、坐禅の道場で古人の語録を読んでいた。その時、ある、四川省出身の僧で道心あつい人であったが、この人がわたしにたずねて言った。

 「語録を見て何の役にたつのか。」

 「国に帰って人を導くためだ。」

 「それが何の役にたつのか。」

 「衆生を利益を与えるためである。」

 「結局のところ何の役にたつのか。」と。云々)



教典語録は「月を指す指」であり、「画に描いた餅」である。「指月」も「画餅」も「道」とは切っても切れないものであるが、「道そのもの」ではない。若き日の道元禅師はそれまでに比叡山に置いて一切経を三度読みこなしたというお方である。そのお方にして文字を放擲して「坐禅」の一行に徹せざるを得なかった。以心伝心、教外別伝の宗旨にまみえたということであろうか。それそのものにならなければ万行空しいことに成り下がる。

畢竟してとは換言すれば、通じている世界の様子でもあろう。それそのもの。中途半端や道の半ばで満足し、停滞しる我らである。それはそれで実物ではあるが、見える景色が違うだろう。詰まるところ、のっぴきならないところ、嘘いつわりのないところ、人の為だとか、社会のためだとか言っているお前自身そのものは、いったいどうなんだ!一枚岩なのかどうか?自問自答しているのか・と追いつめ追い落としているのである。

云うまでもなく、行者が行者として仰がれるのは当に当人が「道」の体現者、「道」そのものであるからである。「経典語録」の解説者だけでは済まされないのが「一生の大事」たる所以でもあろう。




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「子二十句」

台風の近づいてゐる子の机

空の記憶水の記憶や蛍草

捨てられし如くに花野にて目覚め

がちゃがちゃと僧となる子のてのひらに

芋の子洗ふ遠き山より水引いて

蛇穴に入るやつれなき子供たち

ふるさとは寄つてたかつて身に入みて

はたはたの跳んでみせたりその辺に

笑つたり泣いたり木の実拾つたり

一人づつみんな一緒に秋の空

来たる道ゆく道どれも草は穂に

てのひらの紅葉いろして冷やかに

道草を覚え初めたる蜻蛉かな

ぶち切れてころがり落つる烏瓜

いふことを聞かぬと固くなる南瓜

蕎麦の花まま子が泣いてゐるやうな

あららぎの実を含みては種飛ばし

空腹に力を得たり泣き相撲

犬小屋の奥まで釣瓶落しかな

背なの子の指さす月の遠きこと




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「口ほど」

寺抜けし用水跨ぐ芋水車

白山の雲の上なる桔梗かな

戸隠は霧生むところ蕎麦の花

ふれてゆくものみなさざれなすすゝき

敗荷やだれも本気にしてくれず

茹で上げて口ほどもなき摘み菜かな

コスモスの風より軽く舞ひにけり

草は穂に便りなくんば空仰ぎ

もの言はぬ眼差しそぞろなる寒さ

虫籠を覗くにだれも咎めざる

鯔待ちの櫓影なす能登入日

父の座に慣れてしまひぬ初秋刀魚





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コメント(1件)

内 容 ニックネーム/日時
ご無沙汰しております。
こちらの「女郎花」の句を許可なく持ち帰り、書にしてしまいました。ブログに載せています。
当方URLが反映されなくなり(名前もリンクできません)ましたのでお出でになるのが難しいかもしれませんが、兎に角、一方的に、御許可ください。お願いします。
花てぼ
2018/10/07 16:39

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