再生への旅

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zoom RSS 直心是道場

<<   作成日時 : 2018/10/12 05:16   >>

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月よりの風に破れし芭蕉かな 玉宗


お寺とはそもそもサンガと呼ばれる僧団のこと。修行者の集まり。仏道、つまり宗教的解脱の学びと実践を目的に集まった者たちの場。現代に於も本山とか僧堂と呼ばれる機関には、そのような本質が備わっている。所謂、日本各地にある「お寺」とは、そのような修行機関を体験してきた住職を先導として、或いは同伴として檀信徒と仏道を歩もうとしている「場」のこと。

それが「お寺」の本筋。いつのころからか、その本筋を逸れたということが現代のお寺事情、宗教事情の本質であるということか。本筋を逸れたのは「お坊さん」か「檀信徒」か。或いは、宗教、仏教そのもの変質したのか、時代にそぐわなくなったのか。かくほど左様に、お寺の存在意義、お坊さんの存在義は宗教の存在意義と切っても切れない三位一体なるものであることの証左であろう。

法華経神力品に次の一節がある。

「当に知るべし。この處は即ちこれ道場なり。諸仏此処に於いて阿耨多羅三藐三菩提を得、諸仏ここにおいて法輪を転じ、諸仏ここに於て般涅槃したまう。」

「この處」とはなにか、どのところか。「かたち」は「内実」を予定している。欲している。「内実」もまた「かたち」を予定している。欲している。

「直心是道場」ということばがある。

直心にして直身。身と心は一如なるもの。つまり、いのちのはなしだ。誰のいのちか。だれのものでもない。抓れば痛い、このわが身わが心である。誤魔化しようのない、生老病死それぞれの今の様子なる、このあるがままのいのちをまっすぐ頂く。それが宗教の本質だろう。それは自らが自らに学ぶ道程でもある。自らが引き受け、自らが解放される歩みでもある。直心、直下、而今の様子である。いのちは一度だって迷ってはいない。迷いとは何か。これから成仏するのではない。既に成仏なるいのちを生きている知足なる法に身を心を委ねること、それ以外に自己の帰るべき落處はない。そこから聞こえる内なる声に、外なる現実に、ありのままなる事実に目を逸らしてはいないか。耳を塞いではいないか。即処に目覚めなければならない。即ちわがいのちが道場なる所以であろうと思う次第。



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「雨」

いのちほどの火の恋しさよ秋しぐれ

落栗やまっすぐ落ちる山の雨

人の来ぬ日の雨のにほひや杜鵑草

嘴の食みこぼしたる木の実とも

秋冷の雨に砥石の打たれをり

錆兆す草刈り鎌や神無月

雨ながらひときわ光り石蕗の花

本家よりどすんと届く今年米

猪垣に囲まれ芋を掘ることに

蕎麦の花実となる山の雨痛し

土手南瓜ごろりごろりと不貞腐れ

猪鍋や油染みたる夜の雨



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「あの子」

銀杏散る朝な夕なとなりにけり

貰はれてあの子は遠きゑのこ草

臨月のお腹はち切れ小鳥来る

十粒ほど葡萄を食べてゐなくなる

どの子にも鳴いてみせたりがちゃがちゃと

一人でも歩く朝顔実となりて

一位の実まだいとけなきてのひらに

しつとりと月に太りし秋子かな

露草や納戸に一人子を隠し

ごろごろと南瓜になるぞ不貞腐れ

秋の暮子を差し出せと鳴く烏

月の子がすわるよ猿の腰掛に



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