わが命の原郷

風にやや遅れゆらめく蓮かな 玉宗
私たちはこの世に生まれる事実を、自分が生まれる以前から存在している世界へ飛び出して来たかのごとく考えています。あたかも人生という客観的舞台へ登場するように。私が舞台に現れる以前から人間の人生劇場は続いており、私が死んで舞台を去った後にも世界は何事もなかったかのように舞台が続けられていくというものです。おそらく、それが世の常識でしょう。しかし、そのような視点だけで人生というものをとらえてよいものでしょうか?
ものごころがつく以前、世界は「私のいのち」とともに展開していました。垣根がなかったのです。それは怖ろしくもこころ癒される不思議な世界でした。年を経るに従って、つまり分別・知恵がつくに従って人はそのような感動に満ちた世界を忘れてしまうように思われてなりません。
人は、人生という舞台に後から参加したというより、人生という舞台とともに生れ落ちたという見方も出来るのではないでしょうか。
生れたときだけではなく、人生を歩んでいる今現在も、死んでゆくときも、いつも自己の世界と共に展開しています。
思い出すことも、忘れることもない、わが命の原郷とでもいうべきもの。人はその原郷と共に生き死にしています。それを仏の信に生きると言います。命、大事に。合掌。

「二番目」
二番目に生まれて寺に涼むなり
犬も喰はぬ機嫌直して心太
汗掻いて二番煎じを免れず
遠ざかる星に願ひをさらさらと
二番子の深入りしたる人の家
有り余る光りの中へ日傘して
今日もまたビリから二番冷し酒
蛞蝓の跡形もなくずぶ濡れて
掻き回すやうに引き抜く二番草
だれ待つとなけれど宵の草ごころ
二番目はなんだか気楽風涼し

「風」
七月や海山に風よみがへる
名も知らぬ風吹き抜ける夏座敷
大の字に寝ぬれば風の薫るなり
万緑の波打つ風の潮かな
夏の蝶風に押されて追ひ越され
けものめく能登の山の背青葉風
夾竹桃風に生き死にありにけり
半島の風を着こなす能登上布
風神の渡るや青田波打ちて
風恋ふは沖恋ふに似て夏薊
海の家風が素通りしてゆきぬ
風死して昼過ぎのそのしづけさよ
梢吹く風の音にも白南風の
片陰りひたと已む風宿場町
窓辺より見ゆる青空風薫る
襖外し裏も表もなかりけり
この記事へのコメント
回向文が聞こえてきそうな!
合掌
回向文が聞こえてきそうな!
合掌
いつもコメントありがとうございます。
暑くなります。ご清寧を祈ります。合掌。