俳句鑑賞・その5

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山眠るやうに死にたいだけのこと 玉宗


〇11月19日の投句より

子規の跡を継いだとされる虚子は「客観写生・花鳥諷詠」というお題目を掲げて時代の俳句界を牽引していったが、私には子規の「写生」と虚子の「写生」が似て非なるものに思えて久しい。写生と雖も表現であるから当然作者の主観の色合いが出る。人柄というか、匂いというか。言葉ひとつ斡旋するにも作者の感性がものを言う。
そういう意味でも、虚子には子規よりも際立った「主観の匂い」が漂っている。正岡子規にはよくも悪しくも「無味無臭」といった「実直さ・素心」がある。まっすぐ感じ、まっすぐ言葉を選んでいるようなところがある。虚子には鷹揚に見えて、抜き難い主観の色、匂いがある。客観写生という言挙げも、自己の主観の危うさを知った者のお世話に見えて来る。
虚子は確かにその危うさに遊んでいる。彼は自分の死んだ後、新しい月並が蔓延するであろうと語ったらしいが、それもまた主観の危うさを知悉していた虚子の抱いていた不安を物語っていよう。

春風や闘志抱きて丘に立つ 虚子
去年今年貫く棒の如きもの

(この項続く)

ということで、今日も写生の目が利いている句を。

「銀鮭のはららごこぼす朝の市 霜魚」
「はららごこぼす」という眼差しが捉えた世界をどう表現するのかだが、どうして座五が「朝の市」なのかが正直よくわからない。朝市に「こぼす」?座五に逃げた感じが拭えない。余所見せずにもっと「こぼす」様子を写生できないかな。「銀鮭のはららごこぼす白き飯」「銀鮭のはららごなだれこぼれけり」とか。ああ、食べたいな。

「麦を蒔く阿蘇の噴煙風に傾ぐ 寛昭」
遠くを見遣る眼差しが捉えた自然描写。上と下を少し入れ替えたらどうだろう。字余りなら比較的上の方が調子がいいのでは。「風に傾ぐ阿蘇の噴煙麦を蒔く」とか。或いは「麦蒔や阿蘇の噴煙風に傾ぎ」とか。一句のリズムが少し気になった次第。

「D51の鉄橋過ぐや通し鮎 泰與」
視点というか視座が面白い。「鉄橋を渡るD51通し鮎」というのもありかな。写生の世界って面白い。よく見るということは自然や命の深みや豊かさを感じ取ることに他ならないのではないかな。

「山眠る黒部のダムの満水期 和」
「黒部のダムの」と「の」が続いて」「満水期」。結果的に理詰め感があるな、私には。これもやはりリズムということになるのかな。「山眠り水満々と黒部ダム」とかどうだろう。「水満々と」が写生ではないかと思う。「満水期」は写生言語というより流通言語に近い。調子、リズム、韻文は内容もなんだが、一句を散文、説明、報告、理詰めに終らせないための仕掛けなのかもしれないね。当たり前かな。

「茶の花のすこし俯く女坂 祐」
よく見えている感がある。「少し俯く」がいい。「女坂」は予定調和の感がなくはないが、悪くはない。即き過ぎはどうかと思うが、過ぎていなければ世界がまるく収まる。しづこころなる花のいのちの交響曲、といったところかな。

「再会の深々と脱ぐ冬帽子 正則」
「深々と被る」のじゃなくて、「深々と脱ぐ」のだと。お辞儀をしながら脱ぐということなんだろうか。実際にはどんな作法だったのかなんて、どうでもいい。いろいろ想像させる。「深々と脱ぐ」という表現が面白い。見たことも聞いたこともないが作者の感性が認識した世界であることは紛れもない。冬帽子の出会いが見えてくる。これも立派な写生。



〇11月20日の投句より

正岡子規亡き後、虚子と共にその両翼を担った河東碧梧桐がいる。一時期、虚子の継いだホトトギスを凌ぐ勢いで俳句界を席巻した。その俳句世界は新傾向俳句、無季語俳句、自由律俳句、ルビ俳句と変遷し、竟には行き詰まり俳句から引退した。
赤い椿白い椿と落ちにけり  碧梧桐
春寒し水田の上の根なし雲
愕然として昼寝覚めたる一人かな


 ところで碧梧桐の俳句は虚子らが忌み嫌った主観俳句だろうか?といった疑問が私にはある。人物的には小さいころより、虚子の方が余程直情型だったらしい。虚子は情の人間だったというのが私の観察である。当然のようにその俳句の上の色合い、匂い、響き、光り、翳がつき纏うだろう。人間の感性が言葉という感性とぶつかり合うのが文藝の舞台裏での現場である。河東碧梧桐の方が余程、正岡子規の写生・写実精神に近いのではないかと思っている。そこにはつまらない主観があるのではない、恐らくつまらない写生俳句があるのだ。碧梧桐は主観を述べようとしているようにみえて主観を超えたところを述べようとしているように見える。碧梧桐が行き詰ったのは俳句が感性の所産であることの裏腹なのではないかと私は思っている。要するに碧梧桐は虚子より人が良すぎたのである。それこそが二代目を継げなかった致命的な欠点だったのかもしれない。虚子も又ある意味感性の化け物である。「写生」の世界には作者の闇と光が反映する。

ということで、今日も写生の目が利いている句を言いたいところだが、写生するにも何にもまず以て感動、心の動き、興趣、さざ波、小さな発見、目覚め、にほひ、肌触り、音叉、心模様といった俳句を作る以前の核があることが理想だネ。四六時中感動なんてできないとこれ見よがしに言う人が偶にいるけど、そんなの当たり前。というか、実際のところはいのちは四六時中何かに反応している。私が気が付いていなかったり、ぼや~としているに過ぎないというのが真相ではないかな。見えないものを見る。見えているものをちゃんと見る。聞こえているものをちゃんと聞く。自分のいのち、感性とまず以て向き合う。文芸のいろはだよね。作品とはつまりそのような次第の鏡ではあろうかと思うのだが、自分の作品とまっすぐ向き合っていないのは本人であるということが珍しくない。自分を知ることが自己表現の最終目的なのかもしれないね。言葉を紡ぐことへの謙虚さが欠かせない所以。

「奥利根の二両車両や空つ風 泰與」
感動を秘めた眼差しがあるから季語の世界が広がる。俳句は季語の説明ではつまらないね。いうまでもなく季語は詩語。既に大きな世界を抱え込んでいる。あとは感じるだけ。

「母亡くし鼻水啜り大根干す 幸」
動詞を三つとか、季重なりとか、三段切れとかといったような俳句の約束事を臆面もなく破って面白い作品に仕上がっている。約束を破っても言いたいことがある気持ちは痛いほど分かる。いつも真心が通じるとは限らないが、通じているのはそれが本当の真心だからだろう。私はそう思う。

「水仙が女のように立ってをり 正美」
「水仙の捻くれながら真っすぐな 玉宗」かつて男目線でんな句を作ったことがある。「女」という存在へのイメージが随分と様変わりしている現代社会。作者は女性かな。いずれにしても俳句はジェンダーレスなところが多分にあると思うが、ときに女性でなければ作れないやうな作品に出会う。「ように」としたところが曲者ではあるけどね。

「冬ざれてにはかにけぶる眼かな 寛昭」
「けぶる」とは輪郭がぼやけ、かすんで、そこはかとない感じかとおもうのだが、冬ざれて蕭条なる墨絵のやうな世界に、謂わば眼老いていく実感があるのだろう。否、もしかしたらそれは「心模様」をいっているのもしれんね。けぶっているのは「こころの目」ということ。けぶることで美しく見えてくる世界があると言いたいのだろう

「石よけて大根の葉の流れけり 寛昭」
「流れゆく大根の葉の早さかな 虚子」という写生俳句の金字塔みたいに言われている一句があるが、それに引けを取らない見事な写生俳句だと思う。有無を言わさず実景が手に取るように、眼前のように見えてくる。今にもまなこが喜びそうな一句ではあるね。

「不忍池いちめんの枯蓮 暢」
まず以て、不忍池の枯蓮をかつてこのように詠んだ俳人はいなかったのだろうかと驚いた。類句というような話ではなく、如何にも虚を突かれた発見、眼洗われるような作品である。「いちめんの」が描写である。作者の主観が見事にかき消されて、眼差しを共有しているが如きであるね。

「常念岳の尾根より晴れて蕪汁 草民」
「うらおもてなき鯛焼の腹黒し 草民」
「晴天に呼ばれて叩く蒲団かな 草民」
一句目、「尾根より晴れて」からの「蕪汁」への展開、二句目の俳味つまり庶民の心、三句目の「呼ばれて叩く」という措辞。いずれも季語の世界が詩語の世界でもあることを教えてくれる。詩語、つまり「いのちひろやかにして、親しく、深く豊かに、謎めいて」いる世界のことかな。



〇11月21日の投句より

「俳句」は「感性による認識詩」であるという立場で言わせて貰う。「写生」といえば、「主観を先立てないで、見たママ、ありのまま、感じたままを描写しろ」と指摘されるのであるが、本人は「見たまんまです」と弁明することがままある。「見たママ」が「定型詩的表現」になり得ているかどうかが試されているのであって、大雑把か或いは詰め込み過ぎて「感動の正体」が明らかでない。句意が明快でない。焦点が絞れていない。ひとりよがりに過ぎる。はたまた、今更ながらの説明であることが多い。

「見たママ」「ありのまま」「感じたまま」であるとの弁明も、本人がそう思いこんでいるだけ。というより「ありのまま」が表現足り得ていない。五七五の字数を揃えているだけ。言葉足らずか、認識不足か、もしくは不適当なのである。写生俳句と雖も文芸はどこまでも「自己表現」であろう。表現するに正確であるに越したことはない。

見ること、感じることの実際とは「辛抱強さ」のようなものが欠かせない。こちら側が鏡のようにまっさらであったり、光や水を受け入れる器の度量を備えているに越したことはない。それには向き不向きといった言葉に共鳴する生来的な才能もあるかもしれないが、俳句文芸という習いごと属性からして何がしかの鍛錬も必要のなのかもしれない。

何事も荒削りでは具合が悪い。洗練、研ぎ澄まされてこその表現世界の展開があろうというものだ。当たり前なことを言うが、それはつまり作者の眼力・想像力・言葉力が試されているということでもある。要するに、それこそが「写生不足」と指摘されるものの正体でもあるんじゃないかな。

自己の世界をも含め「作品」とはそう容易く手に入るものではない。ましていわんや俳句と言う手強い最短定型詩を獲得する作業である。お互いに、あきらめないで、慢心せずに、気楽にがんばりましょう。

ということで、注目句を。

「大根も柿も暖簾となる津軽 霜魚」

「空つ風利根の白波尖りけり 泰與」

「八ッ場ダム望む足湯や冬紅葉 正則」

「待つひとも去るひともゐて冬港 草民」




〇11月22日の投句より

写生、写生とバカの一つ覚えをくり返してるの感が拭えないが、「写生」という定義もなんだか大雑把ではある。「生を写す」という理念では人の営みの全てがその対象となる。「いのちを写す」ことこそ文芸の本質であることを誰も否定はしないであろう。作者が「いのち」へどれほど切り込んでいけるか。作者の「いのち」がどれほどのものなのか。月並を脱するには方法論的にも、主体的にも自己模倣、自己偶像化を避ける潔さがなくてはならない。表現とは当に「腸」の話なのである。それだけが試されていると思いたい。現代俳句の作者に腸がないというつもりはない。そうではあるが、ときに自己増殖に陥り腐敗臭を放ってはいないかと点検するのも無駄ではなかろう。況や、俳句実作以前の俳壇事情に振り回せれる愚かさにおいてをやである。自戒を込めて言うのですよ。

要するに、虚から実を生みだし、実から虚を生み出す。その契機を眼前の即物具象を手段としてやってみないかという話。
「写生句」に対しては未だに組み易いとか、或いは顧みるに足らないといった偏見があるようだが、大概は「ありのまま」という幻想に目を覆われているといってよい。或いは、見える世界より観念に重点を置きたがる癖が人にはある。形而下より形而上が優れているといった謂れのない歪みがある。余程現実に痛めつけられてきた人間の自己防衛でもあろうか。見えない世界こそが表現の彼岸であるとは聞こえはいいが、それは如何にも思わせぶりなもの言いである。「意は似せ易く、姿は似せ難し」これは最短定型詩に於いてもあてはまる真実ではないかな。形も内実も、どこまでも似てる似ていないという程度の話しに終始しているお目出度さがあるね。(この項続く)

ということで、今日の注目句を。

「鈴なりの海を見下ろす蜜柑かな 俊克」
  昔、渥美半島の蜜柑山を訪ねたことがある。そういえば海が見えていたな。空と海の青さと、蜜柑のいろ。如何にも美味しそうな、健康的な世界ではある。

「湯冷めして廊下の奥の長電話 寛昭」
  昭和の雰囲気が漂う。「廊下の奥」が微笑ましい。何気に見るべきものを見ている。

「眼裏を真空にして冬銀河 真波」
  独特の感性が伝わってくる。遥かに遠い冬銀河が目の当たりに、まぎれもなく輝いている。一瞬、その不思議さに気づいた作者。それはさなgら、眼裏に銀河が横たわっているのと同じことではないかと。「真空にして」とは大きな世界に身も心も放り出し、宇宙遊泳しているようだと言っているのかな。

「手のひらに北山時雨やはらかく 美音」
  時雨といえば京都。「北山時雨」ということばが既に味わいのある詩語となっている。「手のひらに」という具象が利いている。「やはらかく」も時雨の本情を言い得て半端ない。感性豊かな一句となった。

「時雨より棒のやうなるをとこ来る 草民」
  謎めいた一句だが、ヒントは勿論「時雨」にある。なければならない。読み手それぞれのイメージが湧くだろう。比喩はときには共感のよき回路であるが、ときに歯痒い迷路ともなる。私には木偶の棒といった人物評価の言葉もあるように、名もなく不器用、そして時雨がちなる身もふたもない人間が見えてくる。




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「境内」

朝な朝ながらんどうなる寒さかな

送食の版木響くや冬木立

僧となる月日の中の落葉掃き

木枯しを吐き出す阿字の仁王尊

境内を抜ける近道雪婆

獣めく七堂伽藍山眠る

冬めくや雑巾固く絞るとき

髪を剃る鏡曇れり帰り花

枯木山典座裏より続きをり

方丈に褌干され柿干され

接心を控へし山の眠りかな

面壁の背なに冷えゆく山の音

底冷えのほかは音なき坐禅堂

銀杏の実鐘撞堂に干されあり

裏門を出ればほどなく干し大根

冬菊のひかりほのぼの地蔵尊

焚火せし匂ひ纏へる作務衣かな

木立より仰ぐ夕星冬安居

鐘撞いて眠るばかりぞ木菟の鳴く

岩窟に虎の嘯く霜夜かな




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「味はひ」

いつもとは変はらぬ勤労感謝の日

火の気なく柿も蜜柑も喰ふ気がしない

故郷は風もしよつぱい三平汁

美人とは言へぬがとても根深汁

味はひ深き妻と二人の冬籠

加賀殿の霙混じりや蕪鮓

水鳥が羨ましいのかさうじやないのか

便りなき妹一人枇杷の花

人の世のここに幸あれ干し布団

どちらかと言へば鰤より鮪かな

冬晴のきれいな窓を開け放つ

突つついてみたいな葱の先つぽで




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