俳句鑑賞・その6

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冬籠り雲の腸見て暮らす 玉宗 

〇11月23日の投句より

ところで「不易流行」という言葉がある。
「不易を知らざれば基立ちがたく、流行を知らざれば風新たならず・去来抄」「蕉門に、千歳不易(せんざいふえき)の句、一時流行の句といふあり。是を二つに分けて教え給へる、其の元は一つなり。・去来抄」「師の風雅に万代不易あり。一時の変化あり。この二つ究(きはま)り、其の本は一つなり。その一つといふは、風雅の誠なり・三冊子」
蕉風俳諧の時代になると、俳諧を伝統的文芸のレベルにまで高めようという芭蕉たちの芸術的自覚にもとづき俳諧をも風雅と呼ぶようになった。芭蕉は〈風雅の誠〉が芸術としての俳諧の第一の存在根拠であると考えられていたからである。

沢木欣一先生の著書『俳句の基本』に次のような文章がある。
「ものの実(まこと)というのは物の本性・本意で、対象の本質を意味する。「松のことは松に、竹のことは竹に習え」のように、さかしらな私意(小主観)を離れ、対象の本質を把握せよ、というのである。物を尊重すると同時に芭蕉は「情」を重んじた。私意を離れなければ「誠の情」に至らない。「物の誠」と「情の誠」とをぴったり一致させるのが理想である。客体と主体の完全な合一が目標である。物と情は「誠」をせめることによって合体するといってもよい。これが芭蕉のいう「風雅の誠」であろう。後略」

 芭蕉の門人・土芳は『三冊子』の中で、「見るにあり、聞くにあり、作者感ずるや句となる所は、即ち俳諧の誠なり」と述べている。俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、対象をよく観察し、傾聴して、そのありさまを十七文字で表現することに全力を傾けるという意味である。作句現場での生きた感覚に重きを置き、それが作品となるところに俳句の価値があるというのだろう。つまり、感性を尽くすこころざしの真偽が問われている。

もっといえば、まさにそのような詩精神こそが俳諧の存在意義、真骨頂であるということ。生の、活きた短詩形文学の本質そのものであったということ。そこにこそ俳諧に遊ぶ楽しみ、苦しさ、醍醐味がある。句会をしたり、結社に入るということは本来そのような醍醐味を味わう事でなければならない。即興、即物、即境、即心。「かるみ」とは「もののみえたる光り」と言い得る「いのちの輝き」がなくては叶わないものであろう。流行とは生きている今の気息の事だ。日々更新しているいのちのあたらしみ、感性の働く現場の事だ。

 常識や月並に止まっている限りそこに俳諧の「あたらしみ、かるみ、ひかり、いきいきさ」は期待できないのではないかと思っている。そしてそこに於いてこそ、作者の人間性が問題となってこよう。作者の「腸」の新鮮さ、本気さ加減が勝負なのである。俳諧などという「よしなきごと」と笑うなかれ。「夢」や「よしなしごと」でなければ表現できない「真」「誠」や「哲学」そして「詩」があるだろう。腐っても鯛である。俳人が文学者を気取りたいのならば、そのくらいの内実を要求されてしかるべきである。先生とか主宰とか受賞者とか、協会のなんだかんだとかなどと呼ばれて浮かれている場合ではない。不易流行を支える俳諧の誠。俳句文芸もまた人である。そんな人に、そんな作品に心から巡り合いたい。


ということで、注目句など。ついでに頼まれもしない添削なんかも。というか殆ど換骨奪胎みたいになるけど。ご海容のほどを。

「黄落の大プラタナス分かれ道 直」
信頼できる写生眼。これはこれでいいのですが、「黄落のスズカケ道に分かれけり」なんてね。

「風は冬水吸う砥石片減りに 霜魚」
なんか焦点が定まらない感じ。「片減りの砥石に沈む冬の水」みたいな。

「大根のすぽんと大地離れけり 寛昭」
素直に面白い、というか面白さが素直。

「未知といふ恐れぬものよ日記買ふ 美音」
未知の定義がイマイチ分かるようでわからない。もう少し現実への入口として即物してはどうかな。「明日知れぬ余白ばかりの日記買ふ」とか。

「夕映えの渓流ひかり冬紅葉 泰與」
渓流のひかりと冬紅葉がダブル感じがするので、「夕映えの渓にひときわ冬紅葉」で、どうだろう。

「落葉籠池のほとりの光かな 無智」
座五が唐突な気がしてならない。光っているのは何かな。「落葉籠池の畔に置かれあり」でいい感じの写生句になりそう。

「妊婦へと席立つ青年冬ぬくし 正則」
私なら青年を削っちゃう。だれが譲ったかなんて一句に必要かな?「小六月妊婦に席を譲りけり」なんちゃってね。

「日溜りを占めて舞ひをり冬の蝶 栄太郎」
「日溜りを占めて」が私には冬蝶らしくないな。「日溜りを探しに来たか冬の蝶」だめかな。

「お湯に入り初雪を見る独り占め 亜仁子」
少し主観が先行するきらいがあるかな。説明じゃなく、情景描写をお勧めします。「初雪の湯船にひとり四肢伸ばし」みたいな。

「山茶花のやさしき色に散る夕べ 和」
「やさしき色」ですか。形容も主観ですが、誰もがよく使うので分かるようで分からない。もう少し切り込めるのじゃないかな。「山茶花の散り急ぐかに夕間暮れ」どうかな。

「山里の色を流して夕時雨 浩正」
玄人好みの句柄ですな。「中七」に一瞬戸惑うというのが正直なところ。もう少し具象化できそうな気がしないでもない。欲張りですな私。

「懐に燒芋温き家路かな 祐」
類句、類想感があるようなないような。知らないで済ませてもいいのだけど、自己類想からは抜け出して欲しいな。「恋人の如く焼芋抱いて帰る」参考にならんかな。


〇11月24日の投句より

「俳句のおもしろさとは?」
俳句鑑賞にあたってよく耳にし、口にもするのが「おもしろい」といった言葉である。最短定型詩としてのおもしろさといったものがある。言葉そのものや言葉の斡旋や描写による対象への、或いは対象からの感動、発見、諧謔、認識、韻文性、調子、気息、人柄、感性等々。その多種多様な面白さを痛感するものこそが俳句の面目とも言えるだろうし、又は、面白さの多種多様性こそが俳句の醍醐味なのかもしれないと思ったりする。

「古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉」

この句の「おもしろさ」を指摘する識者は少なくはない。芭蕉が切り開いた侘び寂の嚆矢とも言えるこの作品には、当時の「場」があってのこその「おもしろさ」なのであると指摘したのは長谷川櫂ではないかな。古池の句だけではなく、古俳句の多くはその季語一つとっても、俳句の宇宙の変質を来しているのではないかという指摘。造化に従うことを可とする俳諧もまた、不易流行に棹さして現代に繋がり未来をきりひらく俳句の宇宙を創世しつづけているのかもしれない。

そのような視点からすれば、俳句の醍醐味とは「あたらしみ」といって過言ではない。それは単に時代にもて囃されるような作品を作るといったような徒花的話しではなく、俳句の輝きそのものでもある、今を生きる俳人の「いのちのかがやき」そのものでなければならないだろう。対象の輝きに共鳴共感する俳人の感性の輝きがなければならないだろう。いのちの輝きそのものに老若男女や貴賎上下や有象無象、天地の隔てはない。老には老のいのちの輝きがあろう。若には若のいのちの輝きがあろう。男には男のいのちの輝きがあろう。女には女のいのちの輝きがあろう。山川草木、一木一草、行住坐臥、四苦八苦、生老病死、天地自然の運行、当に造化に従ったいのちの輝きがあろう。俳人とはそのような輝きに敏感であり、最短定型詩という構造を以って表現する者のことを言うのではないか。(この項つづく)

ということで「面白い句」を。

「一湾の小春日に入る帰船かな 直」
写生眼の捉えた情景の、ゆるぎなき絵を見るやうな面白さ。

「茅葺きの柱時計に冬を巻く 霜魚」
螺子を巻くのじゃなくて、冬を巻くとした詩的把握の面白さ。

「裸木の天に触手を延ばしたる 静代」
裸木が触手を延ばしたという造化の妙を捉えた眼差しの面白さ。

「北塞ぐ山の駅舎の仮眠室 紀宣」
見たまんまと思える事実、リアリティ、写実の面白さ。

「三毛猫の日向の匂ひ帰り花 泰與」
季語の謎めいた即き具合の面白さ。「三毛猫の」は「に」がいいかな。

「柊の花あたたかく香りけり 真波」
「あたたかく香る」という感性だけが一句一章となっている面白さ。

「公園へ枯葉を踏みに行くところ 千秋」
付け合い的、連句的、何気なさ、欲のないかるみの面白さ。

「水涸るる石のさざれや桂川 栄太郎」
「桂川」という固有名詞が受け止める季語の世界のふところの面白さ。

「凩や膝ぶつけ合ひ地下酒場 草民」
季語が広げる人の世の物語り、その哀れさと余情の面白さ。


〇1日一句鑑賞・11月25日の投句より

(承前)

H氏賞選考委員も務めた「風」同人にして詩人の西垣脩氏は嘗て次のようなことを述べている。

「句をつくるということは、日常性に垂直な精神の軸を立てその場に刻々の自己を確認する操作であって、人間として生きるために択んだことだ。不完全な混乱した日常体験が表現によって完全な意味ある体験として秩序づけられるところに、詩の存在の意義がある」 (「風」昭和35年9月号)

「日常性に垂直な精神の軸を立てる」とはどういうことか。

私という生き物を観察してみるに、具体的、現実的、散文的歩行をする社会的横軸の生き物でもあるとともに、自己の命や人生の深みに向かう哲学的、実存的、韻文的沈潜、存在そのものへの縦軸的探求にも似た退歩的アプローチといったものがある。生きることの意義、いのちの真相を知りたがっている私がいることを誤魔化せない。そして、そのような本来意義深い日常を何気なく流されるようにやり過ごしている私がいる。

「今が大事、今が大事」と言いながらも、その真相は目先の事象に奔走しているにすぎないのではないかと思う事がある。生きる為の奔走が悪いと言うのではないが、時に空しさが湧くことがある私であるのも事実である。

俳句はあからさまにものの言えない詩形ではあると云われる。あからさまに何が云えないのか?横軸的世界の愚痴や意見や思想や正義や理屈などが云えないということでもあろうか。それは俳句も又沈黙の詩形と言っている事になる。沈黙、つまり言葉を越えた認識、それこそが命の深さと対峙し、起き上がる再生の力となるのであろう。

日常における命の垂直軸と水平軸によって構築される命の世界。詩はそのような懐の深い沈黙の世界への歩みであり、真に心の豊かさへ通じる道の一つではなかろうか。言葉を越えた彼岸に渡すことこそが文芸とか表現の真骨頂であり意義なのであろう。

現代俳句は沈黙に耐えているだろうか?沈黙を表現しているだろうか?現代社会の喧騒は俳句の世界にも光りを差し、影を落としているに違いない。現代俳句の面白さとは何だろうか。(この項つづく)

ということで、今日は縦軸への切込みが足りないと思う句を少し辛めに、遠慮なく批評鑑賞します。怒ったり泣いたりしないでね。ご寛恕のほどを。

「身ほとりの句集あまたや山眠る 無智」
たかが一字なんですが「の」が気なって眠れません。以前「に」には限定感が漂うと否定的なことを言ったりしましたが、時と場合で、この場合は「身ほとりに」の方が写生じゃないかな。座五の季語がいい味を出してくれています。

「時雨忌や風の匂ひも生き方も 美音」
「も」がよくわかりません。「時雨忌」という季語に無理強いをしているの感が。中七座五の主観を支え切れていないようです。文芸に独自性は欠かせませんが、主観が独自とは限りません。独りよがりが過ぎないようになってほしいな。縦軸への切込みも墓穴を掘ることになりかねません。写生不足です。

「熱燗やポカポカ体温まる 亜仁子」
正直なところ季語の説明をしているに過ぎないのでは。今更感があるのです。作者の純な感性をもっと発揮できる詩形の筈です。もう少し自分を突き放してみれば縦軸の深みが生まれるかもしれないと思うのですが。頑張ってください。

「人参や大根役者の脇役に 慢鱚」
ん~、これが実景とも思えませんが、人参と大根役者は如何にも即き過ぎ、用意周到では。「人参役者」ってあるのかな。穿ち過ぎで現代川柳でもあり得ないかも。

「幽玄の烏城灯源冬の酒 俊克」
「幽玄」「烏城灯源」そして「冬の酒」というどれも血の通わない流通言語、他人事みたいな語群。コマーシャルのコピー感が脱ぐ得ません。一句の主人公は「わたし」という人並ではない縦軸であってほしいな。

「みちのくの小便小僧着膨れて 霜魚」
「小便小僧」が銅像ならどうかと思うが、まあそれでも悪くはないか。「みちのく」が利いているということになるのかな。

「初霜に靴先濡らす畷かな 泰與」
一応できてはいますが、私的には「畷かな」に比重が掛かっているのが面白くない。「畦道に濡るる靴先霜の朝」とか。

「巡礼の銀杏落葉に和する鈴 和」
なるほどと理解するに二度三度と読み返しました。「巡礼の鈴の音銀杏落葉せり」どっちが姿よく、スラ~と入ってくるだろう。

「咳をして二人還暦迎えけり 公彦」
多くを語らなくても人生が見えて來るじゃ。否、多くを語らないからこそ人生の縦軸を感じることができるのかな。俳句詩形のなせる結果だネ。「二人」でもいいが、「咳をして妻と還暦迎へけり」というのもありかな。

「冬日和裏のにわとり逃げたって 秋子」
面白い発想だね。鶏が逃げたことをわがことのように喜んでいる人間がいる。というか、嬉々として逃げたのは鶏か。いのちあかるい縦軸の世界。人柄が見えてくるじゃないか。季語がイマイチかな。もっと面白い季語がありそうやね。「枇杷の花裏のにわとり逃げたつて」とか。

「乗換への長き地下道かまいたち 千秋」
「鎌鼬」の句では出色だね。漢字でもよくない?




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「老い」

竹馬や兄より老いてしまひけり

目隠しの手の鳴る方へ雪降るか

缶蹴りの鬼も老いたり木守柿

おしくら饅頭揉まれ揉まれて老いたるか

縄跳の波に浚はれ老女となる

帰り花おねしよの布団干されあり

綿虫を追ふには老いてしまひけり

着ぶくれて人に遅るるやすけさよ

好き勝手に生きたる父のちやんちやんこ

股引とパンツいっしょに脱ぐなとぞ

綾取りは誰にも負けぬ母なりし

妻留守の二日の煮込みおでんかな

時雨忌やじじいと呼ばれふり返る

風呂吹を冷ますに老いの息足らず




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「見舞ひ」

木枯しに押され救急外来へ

見舞ひせり木の葉舞ひ込むやうにして

付き添ひの待合室に着ぶくれて

咳込めば夜空に火花散るごとし

血圧の尋常ならず霜の声

風邪心地して水戸黄門を見てゐたる

女医さんに叱られたいなシクラメン

マスクして疑心暗鬼の眼せる

枕辺に蜜柑を置いて帰りけり

息絶えし如く舞ひ散る紅葉かな

山眠るやうに死にたい星になりたい

病棟はさながら月の捕鯨船

明日知れぬ夜の甲板アンタレス

白々と月光寒し夜の外来



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