今、ここに、生きる

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帰り花おめおめ生きて何が悪い 玉宗

十一月も今日が晦日。明日からは十二月となる。当たり前か。
その当たり前と受け取っている「時の移りを日、月、年と区切りをつけること」が本当に当たり前なのかどうか。六十四年の間「時」は流れ、移り変わものだという定義を疑うこともなく、何気なく、当たり前のように生きてきたのだが、さて、時間というものの正体は、そのように区切りをつけるということだけで解釈し、解決できるものなのかどうかと加齢に随って思うようになった。いのちの正味期限が迫るにつれて、人間は来し方行方を顧みない訳にはいかない。

言うまでもなく「諸行無常」は仏教のいろはである。変わらないものはない。それは元に戻らないということでもあろう。しでかした善悪の結果は確かにある。悪事をしても過ぎてしまえば跡形もない。だから一向に悪事をする。そんな馬鹿なことはない。悪事を働いた因果はそれ相応の応報があるというのも仏法のいろはである。誤魔化しがきかない。それはどこまでも煩悩世界といういのち横軸の話しである。悪人正機とは悪人善人の定義もなんだが、ほとけのいのちを生きているのに悪人善人といった概念定義を越えろ、外せと言っているに等しいのではないかな。時間という概念、定義にあたってもそれは同様だろう。流れる、変化する。それはいのち横軸の様子を言っている。だから、いのち縦軸の話しである仏道、つまり一度限りの人生を後悔なく生きるには、時間や変化の概念を超える道が指し示されているということになる。

今、ここに、跡形もなく、きれいさっぱり生きる。時間とはまさにいのちのことだ。仏道はいのちをどう真っすぐ戴こうかという話である。そこには時間という概念に滞ったり、先走るような生き方は本末転倒を免れない地平がある。あきらめることもいらない。貪ることもいらない。ありのままでありさえすればいい。いつも、そのときそのときの初心があるばかり。世間様に間に合う間に合わないといった横軸に於ける正味期限は否定すべくもないが、自己のいのちの生老病死を味わうという縦軸に於ける賞味期限は死ぬまであるものと思いたい。なればこその宗教だ。おめおめと生きてなにが悪いと言いたい。


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「遺族」

永訣の朝は明けたり霜柱

しづけさに耐へずふはりと散る紅葉

木枯しを枕に涅槃したまへり

冬菊の温みの中に横たふる

ありつたけの枯葉棺に抛るべく

月光の冷え極まりしデスマスク

棺桶の中の枯野を覗き込む

亡骸に寄り添ひ雪の音聞かむ

足袋穿いて野辺の送りのしづけさよ

死ぬる世を送り送られ山眠る

枯野星人を送りて帰るさの

人はみなだれかの遺族龍の玉




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「母似父似」

これよりの能登の荒海親鸞忌

臘八を控へし山の静寂なる

干され干されて力抜けたる大根かな

配られし暦を一度広げてみる

大根洗ふ腰から下のよく冷えて

母に似たるわが手わが足荒れにけり

四つ目は喰はないでおく蜜柑かな

父に似たる馬鹿正直と霜焼と

山茶花や夕飯時を帰るさの

いざとなりせば妻が頼りぞ風邪心地

もうだれも信じられない湯ざめかな

絶望に何かが足らず火を埋む





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