俳句鑑賞、その2

IMG_0075.JPG

冬に入る五七五の駆け足で 玉宗


〇11月7日の投句より

俳句の真骨頂とはなんだろうかとよく思う。何が面白くて毎日似たような定型詩を垂れ流しているんじゃろうかとわれながらよく分からぬままに生きている。

そいうことをつらつらおもうに、なんだかんだいっても俳句の俳句たるは「あたらしみ」にあるんじゃなかろうかと。日々呼吸するように、前の息がなければ今がないように、いつも今、ここに、きれいさっぱり跡形もなく消えてなくなる。そんな儚くも、生き生きとした、なまなましくも、潔く、空しくも逞しい息使い。言葉というわたしの影とも光りともなる灯しと共にあることの不思議。いのちがそうであるように、俳句はいつも古くてあたらしい。

そういうことからしても、類句類想なんて大した問題じゃない。嘗て、金子兜太が「俳句なんざ、四番煎じ、五煎じくらいが丁度いい」みたいなことを嘯いていた。そんな兜太御仁はだれにも真似のできない俳句を創っていたのだから、その言を鵜呑みにはできないが、要は俳句を作る以前の心掛けが問題なのだろう。自己表現とは言いながら、ありきたりな、中途半端なところで表現して満足しているちっともあたらしくない自己がいるね。

俳句が習いごと、芸事でもあろうことを認めないわけにはいかないが、ときにあらわれる空前絶後の一句を認めるのに吝かならない謙虚さを持ち合わせてはいたいもんではある。

ということで、類句類想感などへっちゃらだい、といった感じの句を。

「一万円小さく畳み冬仕度 慢鱚」

  思えば、きりぎりすだって、糸瓜だって、金持ちも、貧乏人(死語?)も、ピンからキリまで、それぞれの冬支度があろうことを気づかせてくれる。古くてあたらしいいのちの営み。

「どんぐりのぷちぷちふまれいたからう 泰與」

  どんぐりの、あの小粒さ加減には好き勝手に生きたがる可愛らしさ、小さな夢がある。そんな夢がぷちぷち踏まれることへの、理由のない痛み。アニミズムという古くてあたらしい共感がある。

「象嵌の空に降り立つ夜寒かな  真波」

  いままで何度も見て来た夜寒の空を「象嵌の空」と言ってのけた。類想を見事に超えてみせたその孤独感の力量に敬服。いのち一人きりという、古くてあたらしい眼差しがあるんじゃないかな。



〇11月8日の投句より

文は人也、人は文也と云う。文も人も感性の反応態である。それは俳句と云う短詩形に於いても免れ難い真実であることは、誰もが口にはしないが、誰もが暗黙のうちに認めていることではなかったかな。そういう意味ではどの作品もそれなりに個性的であることには違いない。だとしてみれば、俳句の評価を決定づけるのは必然的に作品から匂いたつもの、響き合える感性の度合いということにならないか。十七文字という限られた最短定型から否応なく人柄がにじみ出る。そんな絡繰りが俳句にはあるんじゃなかろうか。単純であるから誤魔化しがきかない、みたいな。

そういう意味では、日々飽きもせず俳句に関わっているのは、人との出会いを求めているという見方もできるのじゃないかな。自己に出会い、人に巡り合いたいということだ。それは自分に似ていたり、似ていなかったり、つまり「個性的」であることが望外の喜びであったりする。

俳句が文學に軸足を置いているという矜持があるなら、人を詠まなければならないことは言うまでもないと思うのだが、現実での出会いのように月並みな人やこれ見よがしな人や見下げた人、つまり「誠なき人」には共感できないし、眼をそむけたくなる人間性が誰にでもあるんじゃなかろうか。人の作品を鑑賞するとは、つまりそういう次第の作業でもあり、だかからこそ鑑賞している私の人間性を問われ試されているということになるんだね。これも当たり前か。

まあ、それはいいとして、自己の正体を深く、ぎりぎりまで掘り下げ、見極め、開放し、韜晦し、生贄にする覚悟があるのかどうか。そんな俳人魂で生きて、俳句スキルで腸の一句をものしている人との出会いがときにある。作品がすべてを語っている。それは実にスリリングだね。

ということで、注目する個性的作品。

「茶の花や漫画で古典読みたる子 無智」
「桶落ちて大音響や浮寝鳥 無智」

  両句共に、季語の斡旋、寄り添いが独自じゃないかな。離れ具合が何とも言えない味わいを醸し出している。一瞬、画面が大景に引いていくような感覚になるね。一種の韜晦術を駆使しているのかな。

「握る手を解いた後は冬となる  素子」
「垂直に落ちる虫あり秋の暮れ  素子」
「落ち葉には小人の靴が二つ三つ  素子」

  これはどちらかと言えばズームインかな。物語がはじまりそうやね。季語が作者の詩的世界のために駆り出されたには違いない。その何気なさが独特の俳句スキルで、なんか悲哀が漂う。いずれにしても人柄が見えてくるじゃないか。



〇11月9日の投句より

沢木欣一先生の言葉。
「第一に写生、或いは写実。レアリズムを重んずること。自己の感動から勿論句が生まれるのであるが、表現技術としての写生をしっかり身につけてなければ絶対に感動を表現することが出来ない。」

「写生というのは簡単に言えば対象に即した感動を、それに最も適当な、その時一回限りの動かない言葉で描写することであると思う。
勿論俳句は十七文字形式であるから言葉で描写すると言っても自ら散文と異なった言葉の煮つめた使い方が要求される。あいまいな意味でなく表現技術としての写生を怠っていては実作の上でいくらせっかちに素材や事柄を追求しても真に俳句を新しくすることが出来ない。」

「小主観のムードよりも物の実体を把握しなければいけないと思っているうちに俳句のいさぎよい直截さに魅力を感じるようになった。茂吉が短歌で表現したものを俳句でやれないものかと考えるうちに、俳句は詠うというより結晶させるものであることに気付いた。俳句はものを素直に見ることが初めであり、終わりであると思う」

「俳句は定型詩である。十七音定型を厳密に守るのがよい。季語は重要で季語の本情の理解が大切である。句作の態度、方法は、写生が基本である。詩因(感動)があっての写生、言葉は単純・平明・的確に」

リアリスト沢木欣一の面目躍如といったとことであるが、実際の先生はリアリストであるとともにロマンティストでもあるように見受けられた。情熱家でもあったことはよく知られるところだ。御自身若いころは極めて抽象的なものの捉え方をする人間であったと述懐なさっている。観念的になりやすい自己への誡めもあったのだろうか。


「ゆつくりと心を開く枇杷の花 静代」
 心を開くのは枇杷の花なのか、見ているこちら側なのか、おそらく両方だよね。「や」の一字でかるく切って「ゆつくりとこころひらくや枇杷の花」ぐらいに即かず離れずにするかな。
 
「一行を呼ぶ一匹の雪螢 美遥」
 なかなか文學なんだけど、「一行」は正確には「一行詩」なんだろうね。「綿虫やここにもひとり一行詩」というのもありかな。綿虫がもっと見えてきそうや。

「初冬に空を引き寄せ深呼吸 蓮香」
 「初冬の」でいいんじゃないかな。「に」は説明っぽいというか、焦点が絞り切れていないうらみが残る。一字が疎かならずだよね。

「街路樹の神話の里や冬紅葉 俊克」
  見たままなのかもしれないけど、「街路樹」がなんかじゃまくさいな。省略する描写の手もありかな。「これよりの神話の里や冬紅葉」

「星の入東風風紋に砂の音 たけし」
  「星の入東風」なんてきれいな季語だろう。もっと感動を結晶させるには「流れゆく星の入東風砂の音」なんてどうだろう。

「佃煮の小魚の目や冬に入る 正則」
  佃煮ってたいがい小魚だよね。言わずもがなッて感じもなくはないので、描写をズームインして「佃煮の眼玉もろとも冬に入る」とか。

「一の酉見世物小屋に生きる犬 浩正」
  見たことがないのだけど、犬の首が浮かび上がる見世物小屋があるそうやね。そのまま写生すればどうだろう。「酉の市見世物小屋に犬の首」即物具象の凄さがあるね。

「晩秋や木魚の頭腫れもせず 直美」
  お坊さんである私からすると「木魚打つ音にも秋の深みかも」というのが写生かな。


〇11月10日の投句より

抽象と具象。主観と客観。唯心と唯物。虚と実。私的にはこれらは二律背反しながらもそれぞれがその時その時の紛れもない命の様子であると言いたい。文芸はこの二律背反の間に遊ぶことであるともいえるのではないか。しかし、実際は、どちらかに偏りやすいのが現実である。若いころが感性豊かである筈なのだが、意外と常識や妄想の中で蠢いていることがある。年老いても病んでも理屈や二見に縛られず堕せず、瑞々しい感性を持っておられる方もいる。一概にどちらが月並みという落し穴に嵌っているかは分からない。
いずれにしても、観念や抽象や主観や虚が上等なのでも、つまらないのでもなく、ときに目をみはったり、或はつまらない観念や抽象や主観や虚があるということなのだろう。同じように具象や客観や形而下や実が見下げたものなのではなく、ときに心を蔑ろにしたりして顧みない具象や現実や人間らしさがあるということなのだろう。
俳諧には対象と出会うのにニュートラルな眼差しが求められるのではないかな。そのようなスタンスの俳句という生き方があろうと思う。虚も面白ければ、実も面白い。人生がおもちゃ箱をひっくり返したような、好奇心に満ちた世界での遊びであったらどんなにいいことだろう。この世には宝でないものはない。われながら欲張りな綱渡りではあるが、まあ、しょうないね。

「渡良瀬のトロッコ列車照紅葉  和」
   ありきたりなフレーズのようにも見える「渡良瀬のトロッコ列車」ではあるが、「照紅葉」を座五に据えた手柄というものがあろう。類想感、既視感がぬぐえないが、作ったもん勝ちや。

「日向ぼこ半跏思惟のかたちより 暢」
   発想の意外性が面白い。遊びこころが感じられる。が、「かたちより」がよくわからない。いっそのこと「半跏思惟のむかしより」とした方が虚々実々として更に飛躍しちゃって、誰もついてこれなくなるのじゃないかな。

「車椅子漕ぐ背に木の葉しぐれかな 直」
   真面目な句と言えるが、重くれているとも言えよう。車椅子と「木の葉しぐれ」が即き過ぎているからだ。俳句の軽みとは「いのちの輝きだ」みたいなことを言ったのは山本健吉だったか。「かな」の詠嘆が重い。いのち輝いて生きていたいね。

「鴨の群一羽の鴨とすれ違ふ 無智」
   余分な主観はなく、ここには眼差しだけがある。具象を提示できるのも、素なる眼差し、感性があるからじゃないかな。人を喰ったような描写ではあるが、対象とは本来いつもぶっきらぼうなものだ。事実はただそうあるだけ。具象はいつも単純である。そこにある存在のおかしみ、なにげなさに共感、共鳴、興味が尽きないという思想もあっていいのじゃないかな。



IMG_9632.JPG

「遺影」

雪婆宙に浮いたり沈んだり

冬空の遥かに天使撃たれたる

柿の皮剥いてみせたる母もなし

熱燗に世を慰めし父もなく

寒き日や親の遺影の下にゐて

茶箪笥に十一月の日差しかな

揮発して日向ぼこより戻りけり

酒買ひに小僧走らす寒波かな

貰ひ湯の路地に仰ぐや冬北斗

がうがうと月を祓うて神渡し


IMG_5588.JPG

「山門」

冷えまさる雨打つ桜紅葉かな

總持寺の木の葉しぐれをふりかぶり

山門に裏表ある冬日かな

境内が近道だれも寒さうに

雨ふれば雨に艶なす石蕗の花

綿虫の舞ひあがらんとして沈む

寺を出てやがて大根畑かな

山門に僧と宿りす能登時雨

土破り腰を浮かせし白蕪

木立より仰ぐ星の座冬安居

木枯しを枕に夢を燠にして


この記事へのコメント