俳句鑑賞その3

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夕星にひとり消えゆく焚火かな 玉宗

〇11月14日の投句より

一日一句鑑賞の趣旨から逸脱感が半端ないのだが、今日は恥を忍んで、鑑賞というより市堀式添削を披露して、私の「写生俳句」の手法を具体的に語ってみたい。ご不満もおありでしょうが、そこは大目にね。反面教師ってこともありますから。参考までに、何かを気づいてくれたらうれしいな。

「紫に耀ふ夕べ牡丹焚く 美音」
いいところに目を向けています。「夕べ」はいらないかな。紫は夕べの空の色じゃなくて焚かれている牡丹の炎のいろですよね。「ぼうたんの焚けばむらさき耀へり」

「 二人寄り五人に増える日向ぼこ 静代」
何気ない観察眼が感じられます。「五人に増える」は理屈っぽいかな。「一人寄り二人寄りして日向ぼこ」が描写かと。

「やわらかく大根煮えし母偲ぶ 眠兎」
大根と母の取り合わせ。中七で少し切りましょうか。俳句にも文体らしきものがあると思う。調べと言ってもいいけど。「やわらかく煮ゆる大根母偲ぶ」

「霜月神楽鬼と舞ひ酒交はす夜 一鷹」
その俳句的切り取りへの挑戦は面白いのですが、なんかごたごた感が。焦点は一つに絞った方がいいかな。「酒の夜や霜月神楽鬼と舞ひ」

「焼網の醤油のにほひ一葉忌 寛昭」
「船頭の菅笠濡らす初時雨 寛昭」
どちらもなかなか渋い句です。一幅の南画を見るようですが、「濡らす」は言わずもがななので、「船頭の菅笠打つや初時雨」で、どうかな。

「 今朝の冬一円切手歪むまま たけし」
その視点が面白い。私には「歪むまま」に違和感があるな。「一円切手歪みしままに今朝の冬」「今朝の冬一円切手反りしまま」とか。

「六甲に沈む夕日の冷え冷えと 幸」
素直に詠まれていていいのですが、わたしなら「夕日の」を「夕日や」にするかな。軽い「切れ」を入れると、なんか一句に格調が生まれませんか。

「天窓に差し込む光月見かな  十河智」
差し込んでいるのは「月のひかり」です。実際のところは「天窓に差し込む月のひかりかな」ですよね。これで見事な一句一章です。

どの句もそうですが、途中で投げ出さないで、よく見、よく感じて、省略できるものは省略して、且つ舌っ足らずでなく、言い過ぎもせず。何せ、五七五の十七文字しかないのですから、作る以前に自分が何に心が動いたのかをはっきりすることが先決であると共に、一句にピタッと嵌る言葉を見つけることが俳句の新鮮さには欠かせないね。当たり前か。「写生」が基本だというのには、見る眼力を養うことと共に言葉の選択力を養う「近道」だからだと思っています。「近道」は余所見をしなければ、表現するべき感動そのものへの最短距離ですね。

〇11月13日の投句より

〈あなたの俳句の最大の敵は、あなたの「言いたいこと」です。俳句は言いたいことを言うための形式ではないし、まして「言わなければならないこと」を俳句にするなどというのは欺瞞です。言わなければならないような大事なことは、ふつうに文章に書くか口に出すかにしてください。俳句は言いたいことをいう形式ではない」

この発言は一見的を射ているように見えるが、表現者の真相を十分には語っていないと思う。浅い。これでは俳句が表現形式でないと言っているに等しい。

流行と普遍。内実と形式。内に感性豊かな「実・誠」がなくて、どうして形式を活かすことができるだろうか。「実・誠」とはつまり「言いたいこと」「言わなければならない大事な事」それは必ずしも主義主張などの観念や主観の領域とは限らない。俳句が文芸であることをやめない覚悟があるならば、言葉以前以後の詩性、感性、沈黙の世界こそが「大事な事」でなければならない。

客観写生子の欺瞞とは「言いたいこと」「言わなければならない大事な事」に眼を瞑って事足りようとしているところにあろう。昨日の敵が今日の味方ということもよくある話だ。主観や観念がつまらないのではない。ときにつまらない主観や観念があるのだ。又、同じように写生の武器たるべき「感性」が常に間違わないということでもない。人の感性を借りて事足りている月並みな人間が時にいたりもする。「感性」という化け物を手なずけることを忘れてはならない。

俳人はどうしてか「数」に拘る癖がある。徒党を組むことは勝手だが、作品の価値は多数決や権威でどうにかなる筋合いのものではなかろう。ものの言えない文芸。自己を信じることをしない文芸。それは飛ぶことを知らない鳥と同じ穴の狢である。

芭蕉も蕪村も一茶も山頭火も子規も虚子も意匠の違いはあるが、それぞれ言いたいことや言わなければならい大事な事、つまり「表現」に骨身を削っていたのに違いないのだ。現代俳句が商業主義やマスコミに誘引されたり、自ら形式主義やセクト主義に堕することは俳諧のメルトダウンではないか、という思いが私にはある。崩壊はいつも内部から始まる。

ということで、周りの雑音なにするものぞ、といった品格のある作品。

「落涙の仮面のピエロ落葉踏む」 直
心象風景っていうんですか、これ。何が哀しくて生きて行かなければならないのか。泪なくしては生きて行けない人生。古今東西、素顔をではとても生きて行けない世の中。仮面を外すことも叶わぬピエロの品格。誰にみせることもない美しい泪。落葉を踏む音がものがなしいね。

「じわじわと火薬のにほひ北塞ぐ たけし」
人間は冬眠ができない。せめては北窓を塞いでおとなしく部屋に閉じこもるくらいのことだ。それにしても、冬は臭覚が研ぎ澄まされ、人間にも聊かの獣感覚が遺されていることを知る。火薬の匂いか。まるで、囚人の品格だね。

「無患子の珠散り敷くや深大寺 和」
無患子と深大寺。多くの俳人が習作を残していることは想像に難くない。「珠散り敷くや」が独自の手柄となろう。だれにもできそうでできない。詠まれていたようで詠まれていない。まさに授かりものだね。見事な立句じゃないか。堂々とした俳諧の品格。

「識り尽くしたはずだつたひと蕪汁 真波」
定型詩に殉じ、俳句の生贄とならんとする作者の人柄、女の品格が伝わる。自己を肯定も否定もしない。表現するだけの道が残されている。「蕪汁」が切ないが、救われていることに気付いているのだろう。

「底冷えの茶室に釜の滾りたる 幸」
焦点が定まり、過分も不足もない一句の調べがよい。茶室の空気感、静寂、不在感が伝わってくる。多くを語らない茶人の品格だね。

「昇る月やけに大きく一茶の忌 寛昭」
「やけに大きく」という措辞が一茶の生涯を彷彿とさせて面白い。童心のまなざし、調べがあるね。ときにその馬鹿正直さ加減がどうもならんこともある一茶だが、いつのまにか嘘のないその俳句世界に引き込まれる。。「やけに大きく、まん丸い月のような」一茶という品格。


〇11月12日の投句より

写生、個性、文学等々、管見からの理屈ばかりを並べ立ててきたが、実作の現場では中々に思うようにはいかない。というか、理屈が俳句する訳でもない。物事の虚実を見極め、対象の本質・本情を把握し、見えないものを見み、聞こえないものを聴く。そんなことは至難の業であるようにも思える。

傍から見ればそんな感じだろうが、実際のところは、無心に物に対し、情に対していると天啓のように響き合う感性の働きがあるものだ。それは言葉を授かる瞬間でもあったりする。感動と言ってもちょっとした心の動き、発見、目覚めと言っていいような「何気なさの再発見」である。そんな心模様に出会い、時空に舞い降り舞い上がり、言葉に出会う。

そんな出会いの為にこちら側も何がしかの力を尽くし、歩を運ばなければならないのが正直にして実際のところ。全方位的にアンテナを張り、わたしが空っぽにならなければならない。肩の力を抜いて欲張らず。俳句を作ろう、作ろうと血眼になるのもなんだが、ぼやあとしていて表現できる筈もない。

どんな世界にも生みの苦しみがあり、それを経た後の喜びがある。というか、苦しみがそのまま楽しみでもあるようなところがあるね。好きなことに夢中、無心になっているときとはそんなもん。文芸も又そのような感応世界のやりとりではないのかなと思う次第。

ということで、作者の無心が感じられるもの。どれも俳句に惚れて、俳句に好かれていると言っていいのじゃないかな。

「母逝きてひと月遅れ大根干す 幸」
句意明解。これを報告や散文という領域から免れさせているのは何だろうか。というか、報告がそんな見当違いなこととも思えぬ。要するに俳句的に報告するに値しないということ、そりゃそうだ。面白くもない報告をされたって、という話。それは散文でも同じ。俳句には短い文語表現ということもあるが、一句に貫通する気息がそのまま作者の人柄であることを見逃せないな。嘘がないと言ってもいい。作者の誠が感じられるということ。報告にも色々ある。韻文、調べでもって報告される。それはそれで面白いじゃないか。当に、俳句的表現の恩恵だね。

「敗着の一手脳裏に落ち葉掃く 和」
これも比較的作り事感が少ない。内容もなんだが、言い切る潔さを季語が担保しているのじゃないかな。

「酒樽に花生けてある白秋忌 寛昭」
北原白秋と言えば、「カラタチの花」「赤い鳥」などの童謡作家、歌人だね。「酒樽」に花が活けてあるという作者ならでは知り得ない具象が「白秋忌」に嫌みなく応えているな。作為が感じられない。

「世の中に疎くてココア吹いてゐる 千秋」
この正直さ加減がそもそもの俳諧ではないかと私なんかは思う訳。ココア」は季語ではないと思うが、熱々のココアを「吹いている」としたところで、寒い日の一景色ととれなくもない。

「結婚は二度目の女冬ざるる 正美」
俳句形式を信じていなければ、こうも正直に、そして一見不適当な「冬ざるる」を座五に据えることができそうもない。現実は甘くないが辛くもない。あるがまま。まさに「冬ざるる」今日この頃ではないか。

〇11月11日の投句より

彼の石田波郷が「俳句は文學ではない」と嘯いたのは有名である。
文学性の本質の中には「個」の問題と共に、「つくりごと・創作」というという視点があろう。波郷が文学ではないと言った時、それは波郷がこころざしていた「打坐即刻」の俳句世界が日常や自己の実相を虚飾なく詠うものだという矜持があっただろう。その様な展開でとらえるならば、俳句はありもしない事を捻くり出すというような「つくりごと」ではない。
が、しかし、現実そのものではない定型詩という作品「つくりもの」でもある。そんなことは境涯俳句作者でもある波郷とて否定はできなかったであろう。穿ったものの見方をすれば、人生、生活、そして境涯さえも又創作ではないかとも言える。現実が芸術を真似るのか。芸術が現実を真似るのか。

そして、俳句には「記録」という側面があり、それもまた、文学一般の属性であり俳句だけのものではないと思う。一句は波郷の生きた証であり、偽りなき心模様に違いなかっただろう。人は自己の内に世界の象徴を取り込むことによって救われるといったことがある。作品の主人公・主格はどこまでも自分でなければならない。しかし、それこそが文学性の核となるものではないか。

波郷の残したこの言葉は一筋縄ではいかない。私のような俳句の末席になんとか連なる様なものに、その真意を忖度することは難しい。波郷が「俳句は文学ではない」と吠えたとき、彼には俳句という最短定型詩と心中するという文学者魂が燃えていたのではなかろうか?私達は波郷の逆説に翻弄されているのかもしれない。「俳句が文学であるかないか、そんなことより小説や純文学と呼ばれるものにもひけをとらない屹立した一句を創ることに命を懸ける覚悟がお前にはあるのか」

寡黙な波郷の生き様、作品にはそんなことを思わせる不退転な気息・響きがある。つまり、彼には俳句を作ることは生きることに他ならなかったということ。俳句が第二芸術であるとかないとかも、波郷には問題ですらなかっただろう。俳句は俳句でありさえすればいいのである。彼には俳句と共に生き、死ぬる不退転の志があった。それこそが波郷の個性であり、波郷作品の独自性、品格を形成していったのだろう。作品とはそのような個性が時代と交差し、境涯と対決した証であっただろう。そういう意味では彼の作品は石田波郷という人間以外のなにものでもない。それが偶々境涯俳句であったということだ。

作句現場での生きた感覚に重きを置き、主客一体となった「誠」の表現世界。つまり、俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、観念を先走らせず、対象に見入り、聞き入り、情に入り、こころ通わすこと。そのような感応の世界を十七文字で表現することに命をかける。つまり、感性を尽くすといった「文学性の核・こころざし」の真偽が問われている。
もっといえば、まさにそのようなこころざし・詩精神こそが俳諧の存在意義、真骨頂であるということ。生の、活きた短詩形文学の本質そのもの、つまり俳句の本質であったということ。そこにこそ俳諧に遊ぶ楽しみ、苦しさ、醍醐味がある。句会をしたり、結社に入るということは本来そのような醍醐味を味わうことであったに違いない。

その形態は時代と共に些かは変化してきているのであろうが、本質的には波郷の時代も現代に於いても変わらない感性をやりとりする世界の話であろう。言葉との関わり方にも個性がある。人との関わり方に個性があるように。自己との関わり方に個性があるように。それを「文学」と呼ぼうが呼ぶまいが大した問題ではない。「俳句」は「俳句」でありさえすればいいのだと思う。


「鯨見る村の埴輪の眼かな 直」
不思議な句だ。埴輪の眼に映っているのは太古から哀しい声を交わす鯨の海であったか。時間軸や空間処理が半端ない。宇宙規模の文学だねえ。

「薪小屋は満杯なりし神の留守 泰與」
渋い。思わず唸るですな。人の世の暮らしぶりが窺える。見るべきものを見、感じるべきものを感じている。座五の季語が俳諧だね。柳田國男か折口信夫の民俗文學を彷彿とさせるじゃないか。

「白樺へ降りくる霧の音したり 泰與」
自然の妙に耳を澄ます作者。聞こえると思えない音の世界が微かながらも確かに聞こえてくる。写生の妙。観念的ではなく感性による認識詩、韻文足り得ている。

「重箱の中の賑はひ亥の子餅 寛昭」
人為の妙に目を見張る作者。見ていて見ていない世界が手に取るように見えてくる。写実の妙。主観を前面に出さず描写に徹することで即物具象詩、韻文足り得ている。

「生臭き女のたうつ枯野かな 真波」
「野ざらしの畳に別れ烏かな 真波」
「生臭き女」「野晒しの畳」という措辞と季語の斡旋、配置が一句にリアルさを増幅させていよう。横溝正史の長編推理小説に負けない文學、謎めきがあるじゃないか。自己愛に徹する俳句スキルが半端ないね。面白い。

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「世」

あらぬ世の夢を燠とし冬籠

老人と猫のうろつく寺小春

寒さうな雨が降るなり枯蓮

冬菊やひとかたまりのあかるさの

先の世の声を聞かばや帰り花

花八手弾けて空に声もなし

参籠の始まる山の眠りかな

茶の花や昼過ぎのそのしづけさの

夢の世の入口出口枯野みち

干菜風呂人には言へぬ傷を持ち

凩や月天心に吹き残し



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「今更」

一枚の身を反る銀杏落葉かな

伏せ葱を一本抜いて来いといふ

からびたる老いらくの身を日向ぼこ

大方はだうでもよくて山眠る

黄落や今更妻の手も取れず

時雨るるやおつりを握り帰るとき

眠さうな山に四方を囲まれて

畳替済みたる家のしんとして

生きながらいのち枯れゆくいぼむしり

焚火して空の鍋底見てゐたる

あきらめて翔ち去る冬の夕鴉

火事を見し動悸を胸に眠るなり

泥臭き夜の向かうに狸の目

寒くて寒くて月のまろきも癪に障る


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