「宗教消滅」って、どうよ?!

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沖見える峰に出でたり松迎へ 玉宗

「宗教消滅」という本が、宗教学者・島田裕巳氏によって出版された。そのインパクトのある題名をマスコミも放っておくはずもなく、先日もテレビでコメンテーターとして登場していた。氏は嘗て「葬式は要らない」「戒名は、自分で決める」といった本も出している。長らくタブー視されてきた「葬儀というかたち」「宗教という日本風土のもたらした因習」の実態をあからさまにしている。そのアンチテーゼ、センセーショナルなコピーに乗って、社会は地方都市に関わらず、直葬・家族葬・無宗教葬儀などと言った手間暇、お金の掛からない葬儀や宗教いらない、お寺いらない、戒名いらないなどいった現象が経済と切っても切れないものであること。「宗教」の変質、衰退にとどまらず「消滅」への途上であるという指摘。「無宗教」を自任する学者や日本人が世を席捲し始めている日本社会。一見そのような後戻りできないリアルにしてシリアスな社会現象を指摘して半端ない。

ところで、「宗教消滅」に関して言えば、新興宗教をテーマにしているようだが、島田氏は嘗て「無宗教であることが宗教である」といったような逆説的な言葉を弄していたことがある。言わんとするところは分からないではない。「無宗教であること」とは「既成宗教に救いを求めない」ということなのだろう。そうであることが本来的に「宗教」に生きることにほかならないといった確信がそのような言葉を吐かせしめるのだろうと私なんかは善意に解釈している。

いずれにしても、島田氏だけではないが、何の話題にしても、同じ土俵に上がらなければ話にならない。特に「宗教」の話し、批判になればなおさらである。話の始めに「宗教とはなんであるか」を定義して、お互いが土俵を確認し合わなければならんだろう。そうでなければ話がややこしくなるだけではなく、本末転倒になる恐れがあるのじゃないかと危惧したりする。

そのような事は今更なので、それはさて置き。

都会では、宗教抜き(正確には宗派抜き・聖職者抜き)の葬儀が注目されている。「直葬」に至っては葬儀と言う手間を通さず火葬に付し、散骨なり、納骨をして済ますものなのだろう。「無宗教」「無宗教葬儀」「お寺離れ」等に見られる精神的ベースには「孤立社会」「無縁社会」「ネオ貧困社会」等といった社会問題の翳が反映しており、それは東日本大震災以前からの現象なのだという指摘は頷くのに吝かではない。

「形」は様々であるにしろ、それもまた死者を弔うという遺された者たちの「いのちへ寄り添う心の反映である」ことを認めることに、葬儀改革派も現状維持派も異存ははないだろう。「供養」という言葉を使わなくても、古典的儀式を経なくても死者を「あの世」へ送ることはできるのだ、という社会的通念が浸透しているらしい。或いは死者を悼むこころを近親者のみで取り計らうということに何の後ろめたさもない世の中なのだろう。そこには既存の宗教団体への不信もあるのだろう。その不信を裏付けているのは何だろうか。「割安な葬儀」を求めるのはよいとしても、「割安な宗教心」などというものはあり得ないことを知らなければならない。

お釈迦様は「葬儀」を生業とはしていなかったという指摘がある。 
世の中にはお坊さんと云えば「葬儀・死者・陰・忌」の領域を任せられた者という常識があるようだが、お釈迦様は生きて悩める者の為に法を説き、共に悩み、解決の道を歩んだのである。それは当に「生きる者の為」の寄り添いであっただろうし、煩悩に振り回されずに生きるための教え、実践であった。本来仏教はそちらの方に比重が置かれている筈だというものである。

その地平線上の話で云えば、「葬儀」もまた死者の為の行事というより遺された者達「遺族という生者」のためのものでもある。命は「生」のみが前提条件ではない。「生老病死」が全うなあり方である。親族の「死」という事実から何を学んで生きて行かねばならないか、それをお坊さんは説かなければならないし、遺族も又、故人の「あの世」や遺族の「因果応報」ばかりを期待したり畏れたりせず、遺された自分たちがこの世に再び力を得て、生きてゆく為の教えと方便に耳を貸し、聖職者に問わなければなない。それをすら必要とされなくなった時、「死者を送る儀礼」をお坊さんがしなければならないといった理由はどこにもない。

現代「宗教」「宗教者」という言葉には、聖域を自己弁護に利用し社会的事件を巻き起こした者たちが纏っていた異様な世界としてのイメージとともに、聖職や行者らしからぬ暮らしぶりが醸し出したやくざな世界のイメージがあるのだろう。そのような世界に批判的になるのも社会の目がある。宗教学者・島田氏の眼差しも同様の地平からのモノではないのかな。

弱きものが相寄って支え合うことはよい。私という孤独な存在に目覚めることが他者を受け入れる契機であり、社会生活を営むことの意義もある。「宗教」という言葉を使わなくてもいい。しかし、その根本には、人間が一人で生きていけない存在であるととも、一人で生きて行かなければならない存在であることも、共に人生の真相であり、命の実相であることを忘れてはならない。

社会が「無宗教」や「無宗教葬儀」や「戒名いらない」でこの世を渡ることを聖職者といえども如何ともする事は出来ない。然し、古き良きものを捨て去った後に、又違ったタブーが登場するとも限らない。それは「経済」とか「人権」とか「福祉」とか「個人主義」とかの仮面を被って私たちの「孤独な心」を蝕むかもしれない。永遠を失くし、魂の故郷を持たない現代人。いのちの深さを豊かにし味わうことを忘れたかのような現代人。

いづれにしても、人間はどうしてこんなに近視眼的になってしまったのか。時間と言うものを信用することが出来なくなった。それは神や仏を失くしたと錯覚している者達の右往左往にも見えて来る。自己という絶対的に孤独な彼岸の向うにあるもの。「無宗教」ということに何の痛痒も感じなくなってしまったほどに、私達はそのような「大事な自己」をどこかに置き忘れて来てしまったようだ。

「宗教」とは「人生の拠り所の根本」であるとして話を進める。道元禅師の言葉を借りれば「みづからをしらん事をもとむるは、いけるもののさだまれる心なり。」『正法眼蔵』「唯仏与仏」巻。これこそが「宗教心」ではないのかと私は思っている。

「日本には「無宗教」と自認する人が多いようであるが正確なところいったいどのくらいの割合なのであろう。宗派や教義や教団などに拘らない、或いは無視した「日本宗」とも言える日本独特の、神仏混合、神仏融合、八百万的自然崇拝がある。セクト化や教団化以前の、人生や自然への曖昧にして、混沌なる、名のつく以前の畏怖のようなものが人間にはあるだろう。それをしも「無宗教」と呼ぶことに私などは躊躇するものがある。所謂「無宗教」と公言して憚らない日本人にしたところで「宗教心」のない人などいない筈である。根っからの「無宗教人」がいるとしたら、それは殆ど人間ではないと言ってよかろう。

ここで問題にしたい「無宗教人」とは、世間的価値観の中でしか生きていないような人間のことである。現実にはそのような人を見ることが少なくない。というより私自身の中に、世間的物差しで全てを計ろうとする狭い根性が巣食っている。貧富などの二見の価値判断から離れられない、欲望の奴隷の如き私がいる。欲望に束縛されている私がいる。それはどう考えても「仏道」ではない。「出世間」ではない。「宗教」に束縛されないで自由に生きたいといったようなことは竟に妄想である。欲望に束縛されること、それを「無宗教」とは言うのである。すくなくとも私にとってはそういうことである。曲がりなりにも、お坊さんであることで人並な人間でいられるという私の認識は、徒や僻み根性や厭味から出た言葉ではない。

「無宗教」という「自由」は私にとって「地獄」や「監獄」に等しいものである。「仏道」という足かせ、手かせ、方向性、人の目、生きる姿勢があることで私は自在でいられる。一体の只中の一部であるが故の自在さ。それをしも「束縛・不自由」と決めてかかるのであれば、ついに人間が安心して生きる場所はなくなるであろう。軽々に「私は宗教心がありません」と言わないがよろしい所以である。それは神仏と共に生きることは勿論、人として生きることを否定しているに等しいのではなかろうか。現代人は自然を畏れているようで、その実際は自然を喰いものにし、弄りものにしているのが現実ではないのか。「無宗教」を憚らない人間の所業に見えてしようがない。

先日テレビを見ていたら番組の中で「宗教は阿片だ!」と叫んだパネラーがいた。そのようなことを得々と言挙げする識者がまだいることに少なからず驚いたことだった。「阿片」にも「覚醒」の効能があるらしいが、毒になるか薬になるかは病人次第だ。そのような心配よりなにより、「禅」は「宗教」をも内包しているのは確かだが、「阿片的要素」と対極にあると私などは認識している。

オーム真理教事件以前から「宗教法人」に対する世間の風が偏向し始めていたが、あれは一つの契機となったことは否めないだろう。あの事件はなんだったのかなどと今更検討するまでもない。そのようなことより、「宗教離れ」「無宗教葬儀」「檀家制度の崩壊」等といった昨今の社会現象、漂流する「宗教」の混迷ぶりと慌ただしさが顕在化してきている現代、日本人の「宗教」という言葉から受け取る「イメージの異常さ」或いは「異常なイメージ」の検討の方が余程これからの日本にとって有益ではなかろうかなどと思ったりする。「宗教」という「言葉」「イメージ」が一人歩きしている。迷走している。いずれ「宗教」という言葉は死語になるのではないか。「言葉の末期症状」の様相を呈している。

〈宗教とは、一般に、人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念であり、また、その観念体系にもとづ教義、儀礼、施設、組織などをそなえた社会集団のことである。 『ウィキペディア・フリー百科事典』より〉

「宗教とは何か」という問いに対して、宗教者、哲学者、宗教学者などによって非常に多数の宗教の定義が試みられてきたとされ、「宗教の定義は宗教学者の数ほどもある」といわれるといった今更のような指摘も、何も語っていないに等しいとも言える。「実存」が「定義」とか「本質」に先行するのは「宗教」の於いても例外ではないからだ。見落とされがちなのは「宗教」が「観念体系」であるという指摘だ。「宗教」が観念の領域の話であるなら、「禅・仏道」は「宗教」ではないと申し上げたい。命生きている事実の当所は「観念」だけで済まされるものではない。

そういう意味では以下の指摘は妥当なものであり、且つ建設的な条件を示唆している。

〈日本語の「宗教」という語は、幕末期にReligionの訳語が必要となって、今でいう「宗教」一般をさす語として採用され、明治初期に広まったとされている。原語のほうの英語 Religion はラテン語のreligioから派生したものである。religioは「ふたたび」という意味の接頭辞reと「結びつける」という意味のligareの組み合わせであり、「再び結びつける」という意味で、そこから、神と人を再び結びつけること、と理解されていた。 『ウィキペディア・フリー百科事典』より〉

「神と人を再び結びつける」とは「神の手元を離れた人間」がいるということだ。「自己を見失った自己がいる」ということだ。「繋がりを見失った自己」がいるということだ。「孤独な自己」がいるということだ。現代人は自分の孤独さを本当に知っているのだろうかと言いたい。私は以前から「出家は再生である」と言い張って来たが「出家」を「宗教」に換えてもいい。否、もっと直截に「人生」としてもいい。否、もっと事実に即して云えば「いのち生きること」と換言してもいい。「実存」と言ってもいい。「私」といってもいい。「諸行無常」と言ってもいい。「今」と言ってもいい。「流れ」と言ってもいい。

「宗教」と云わなければならない理由が私にはない。観念だけが独り歩きしているのではない。いのちは常に自己更新をし続けている、世界と不即不離の今の事実である。「いのち」は「再生力そのもの」である。「宗教」が「阿片」なのではない。自己を誤魔化している自分がいるのだ。「諸行無常」が「阿片」なのではない。「諸行無常」に目を瞑ろうとしている弱い自分がいるのだ。絶対的に孤独な自己をどう始末し、決着をつけるのかと問われている。「宗教」という「言葉」が死語になる日が来るかもしれない。しかし、自己の命を生きるのは自己であるという厳然たる事実は免れられないことを肝に銘じていなければならない。

「宗教消滅」とか「私は無宗教です」と公言するのは勝手であるが、「宗教」という観念や「無宗教」という無自覚に束縛されてはいないかと立ち止まり、退歩を学ぶことも決して無駄ではあるまい。枝葉末節に拘り、元も子もなくしてしまう社会がもうそこまで来ている気がしてならない。本末転倒社会と呼ぶ所以である。     (以前にUPした記事を補筆、再考してみました。市堀)






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「佇まひ」

冬桜頬つぺた赤き子を連れて

冬椿まなざし深き恋をして

侘助や咲き満ちてなほ仄かなる

人と逢はぬ冬木桜のゆふまぐれ

冬薔薇といふ傷心の佇まひ

花八手空と弾けて甲斐もなし

厨房の窓の曇りや実南天

寒木瓜や毬つく子らの数へ唄

一筋の風に捲れる冬景色

川涸れて風の行き交ふ水車小屋

真つ暗な顔がものいふ夕焚火



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「窓」

窓に来て用はないかと鳴く笹子

喰へさうな気がしてならぬ実南天

賀状書くにはもつて来いなる窓辺かな

年用意少しばかりの浪費して

北窓を塞ぎ難なく味気なく

悴めばなかなか開かぬ窓のあり

年の瀬を乗り遅れないやうにして

金のないやうに綿虫来りけり

窓拭いてみてもやつぱり冬景色

叱られてつまらぬやうに湯冷めせり

夜の窓冬を灯して音もなし

星空の氷柱窓辺に鳴り出さむ


この記事へのコメント

2019年12月21日 16:40
生きてるのがしんどい、助けて