わが同時成道の宗旨

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成道の粥炊きにゆく星明り 玉宗

今年も師走となり、光陰矢のごとしと実感させられる日々。今年一年私なく「今」をまっすぐ生きていたのかどうか。先を当てにし、あなどり、恐れ、過ぎたことを引きずり、悔やみ、おごり、妄想の限りを尽くしていたのではないのかどうか

諸行無常の人生に対処するにはそれなりの心構え、姿勢といったものが欠かせない。ありのままの世界に生きるとは真摯なるものであり勝手気ままなものでは行き詰る。あきらめることもいらず、むさぼることもいらない安心の世界。限りある命、一期一会の命なればこその救いがあり、道があり、生き方があり、死に方があろう。

十二月八日はお釈迦さまがお悟りを開いた日。難行苦行の末に、菩提樹の下に坐して、明けの明星を仰がれ悟られた。

「吾と大地有情と同時成道す」

本当の悟りとは跡形もなくそれそのものに成りきること。道に成りきる、それを成道とはいう。言葉を換えて言えば、ありのままという実物がものをいう世界のこと。道と常に一体、ひとつのもの、時間的にはまさに同時というべきもの。我他彼此いうようなものでもなく、なにがあってもなんともない一体、一枚の世界の様子。ああでもないこうでもないというようなものでもなく、裏表なく、争うこともいらない、謂わば絶対的な世界の様子。

「三界唯心」という言葉がある。
世界はただ「心」のみがあって、生老病死もすべて「心」の様子であるということ。そこに私とか我といった拘りは本来存在していない。私という存在は、世界と共に生まれ、世界と共に生きて、世界と共に死んでゆくというのが実際のところ。であれば敢えて「私」と意地を張る必要もない。己をむなしくして、よくよく現実というものを観察してみれば、そこには「三界唯心」つまり「心・無私なる縁起の理のみ」があるのだということ。

我々の信仰、仏の道とは諸行無常を宗旨として生きていくことにほかならない。それはつまり、無常なる人生の山河を渡るのに「仏法」というよりどころ、支えを以って歩むことを志していることにほかならない。本来、ありもしないご利益や無理難題を期待するような筋合いのものではない。

眼前にあきらかなる生死、いのちの本質から目を背けない。そこにこそ学びがあり、救いの入口があり、出口がある。地に足を降ろし踏ん張って、空を望む。今をまっすぐ生き切る潔さだけが永遠のやすらかさを手に入れることができるのではないか。思い通りにならない現実にともすれば愚痴をこぼすが、思い通りにならないということは言葉を換え、見方を変えるならば、それほど「今、ここの、命している事実」とは、深く、豊かで、言葉では言い尽くせず、浅知恵では辿りきれない「大いなるもの」だということだろう。

いつも、どこでも、今というかけがえのない命を生きている。そのような「全き、余ることなく欠くることなき今のいのち」の様子がある。仏道とは、欲望に振り回されず、ぶれないで、よそ見をせず、自分の物足りなさを超えて、いのち足りている「今」をまっすぐ頂く姿勢が試されている。まっさらな汚れのない、清浄なる「今、ここ」の事実をまっすぐに受け入れているのかどうか。拘りなく「今」を生きているのかどうか。先を当てにし、侮り、恐れ、過ぎたことを引き摺り、悔やみ、驕り、愚痴を繰り返し、仏と寸分たがわぬいのちを生きている本当の自分を欺くことに終始しているのではないのかどうか。よくよく点検してみるに越したことはない。

人生はあっという間。あってなきが如く。光陰矢の如しと言うが、正確には光陰が虚しく過ぎるのではなく、私が今を虚しく生きているのではないのか。世界は私を中心に回ってはいない。私と共に回っている。なんともない仏の世界、無私なる世界とはそういうものだろう。だからこそ救いがある。あきらめることもいらず、侮ることもいらず、貪ることもいらない。私といったものを先立てない、或いは後追いしないところにありのままに生きる安寧・安心がある。そのような仏と寸分たがわない「道」に生かされている様子が「今」として現成しているのだということに目覚めなければならない。よそ見をせず、私の物足りなさを超えて、いのち足りている「今」を頂く姿勢が求め、試されていると知らねばならない。

行き詰まりのない生き方を仏道は指し示している。
ひろやかにして、偏らない「今」という事実の様子、なんともない「実物」が如実に差し出されている。仏道とはそれをまっすぐ戴くことに尽きる。そもそもが命は生死という解放を前提としています。当初から行き詰まりといったものが予定されていない。生まれて、生きて、死ぬだけの事。絶望とか行き詰まりといったものは畢竟、人間の観念の所産、妄想である。

祖師の言われている「無常、是れ仏性」
自己の内外に常なるものがあると思い込むから間違い、行き詰まるのではないのか。本来、無一物にして生まれ、生き、死ぬ命の事実があるだけ、今も寸分違わず命はそのようにして生きているはずだ。今のいのちに足りている事実。いのち足りている今の様子がある。まさに法灯明は自己の脚下に明らかなのだということ。

仏道は本来の自己を徹底信じ切る道でもあろう。実物は決して行き詰まらない。自己に決着できない者がどうして他己を受け入れることができようか。仏道の和合とは狎れ合いではない。競い合う理由がない。争う理由が本来的にない。仏が仏に落ち着くという話だけのこと。それはつまり、仏道という、行き詰まらない人生、自他一如という、限りあるいのち活かす最善の在り様を言っているにほかならない。

生きながらえて見えるものがある。また、見えなくなったものがあろう。沖に進めば見えて来るものがあり、見えなくなってしまった陸もある。それもこれ、人生という諸行無常の旅の途中の話であり、一期一会の「今」の欠けることなく余ることなき様子ではある。引き返すことも、中断することも叶わない人生の歩み。大凡の見当はつくと雖も、いつ果てるとも知れない人生の歩み。然し、今、ここに展開している空がある。雲がある。風があり、息吹があり、出会いがあり、別れがあり、生老病死、四苦八苦があり、諸行無常の今がある。選ぶこともいらず、拒むこともいらないありのまま世界。仏道とはそのような世界をよしとする話ではあったのだ。
 
人生の山河とは本人が乗り越えられるものを神は与えたのだと云う。
それはつまり人生とは私の世界の様子以外のなにものでもないという極めて当たり前の事実を言っているのではないか。そこは本来比べることのできない領域である。人の世は比べてなんぼのものだ、という現実も確かにあるが、それがいのちの価値の全てだと誰も言い張ることはでききない。存在の条件はみな同じだ。人生の山河の途上で、ときに絶望し、再生し、希望に生きる人間。人は人として生まれて来たのではない。人になるために生れ、人になるために生き、人になるために死ななければならん。生まれたときから「終活」は始まっている。

山あり谷あり、人生の山河の道程と風景は、まさに人それぞれの脚力と視力と想像力の賜であり、それぞれの生きる力が試されている。そのような存在者である自己が自己に落ち着くことの以外の、どこに限りあるいのちを生きる人間の安心立命があるのか。絶望や希望のはざ間で、揺れ動きながらも、今を精一杯いきる。諸行無常の現実に足を踏ん張りながらも、欲望の彼岸という人生の沖へ眼差しを向けて生きる。現実を尊重して生きるとは、そのような事実を受け入れて生きる柔軟さがなくては叶わないことだ。柔軟でなければ生きて行けないのが生きるものの定め。仏と寸分たがわぬ本来の自己を生きるとは実にそのような命の然らしむるところであったわけだ。

己を知り、己を生きるとまでは誰もが口にするが、己を忘れることこそが仏弟子の面目である。それこそが人生を逞しく生き抜いてゆく公然の秘訣だ。あきらめず、貪らず、おのれむなしく今を生きる.倦まず弛まずまっすぐ人生を生きる。諸行無常の沖に出ても見えて来る脚下の世界が確かにある。そのような仏の道を精一杯生きる。それを尊いとしなければない。それがわが同時成道の宗旨であろうかと心得ている次第。いのち、大事に。合掌



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「のら」

もの言はぬうら淋しさを着ぶくれて

捗らぬ終活暮れの早きこと

裸木のそれは見事な脱ぎつぷり

北窓を塞ぎ天井見て暮らす

死ぬる世をのらりくらりと海鼠かな

波の上を走る風あり花と舞ひ

遥々と歳暮が上がり框まで

のらの身の芯まで冷えて納豆汁

ぐつぐつとものいふ煮込みおでんかな

始まりは何かの終り毛糸編む

こんな夜は女郎も雪に化けるかと



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「朝粥」

暁や釈尊大悟の日なりけり

臘八の朝粥炊きにゆくところ

凍蝶のひとひらとどむ藪の中

来てみれば有為の奥山よく眠り

俵子に生まれ変りてしまひしか

おしくら饅頭餡子のやうな女の子

竹馬が立ち寄る近所の駄菓子屋に

缶蹴りの鬼泣く木の葉しぐれかな

コーヒータイムの向かうは冬の波がしら

菜を捨てに畑に出れば雪しぐれ



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