俳句鑑賞・その11

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埋火やいつかは忘れらるゝ身の 玉宗


〇12月13日の投句より

「往きて還る俳諧の心」

 生きていることのどうしようもなさ、不思議さ、あやうさ、こだわりのなさ、有難さというようなものがある。生かされて生きているわたしのいのち。それは覆すことのできないほどに目の当りしている事実である。そのような私の地平から望むこの世のの美しさ、確かさ、あやうさ。これはいったい何もののまなざしであろうか?

法然上人の御遺訓「一枚起請文」の中に次のような一節がある。
「~ただ往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申してうたがいなく、往生するぞと思い取りて申す外には別に仔細候わず。~念仏を信ぜん人はたとい一代の法を学すとも一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。云々」

また、嵯峨野の落柿舎に去来が作ったとされる「落柿舎制札」というものが庵の入口に掲げられている。その中の一条に曰く、
「我家の俳諧に遊ぶべし、世の理屈を謂ふべからず」

前者は一向念仏衆への、後者は俳諧の席に連なる者たちへの心得が標されている。
仏のいのちに遊化し、俳諧のまことに遊ぶ。「我家の俳諧に遊ぶ」とは「わが家の浄土に遊ぶ」と言い換えてもいいだろう。
芭蕉も過ごしたであろう俳諧の浄土。『嵯峨日記』には落柿舎で連衆と共に過ごした様子がいきいきと描かれている。俳諧の席には商人、武士、農民、そして僧侶もいただろう。しかし一旦席を同じくすればそこには「俳諧のまこと」をもって臨むことだけが求められていた。それは現代まで続く俳人という異形衆が引き継いできた魂の器である。開放された時間であり空間。(この項つづく)


ということでタブーを感じさせない句を。

「冬鳥の帰りを待つてゐる大樹 千秋」
いのちへの共鳴、共感がある。冬鳥という小さきものと冬木という寡黙なるもの。アニミズムっていうんですか。人がなんと言おうと「神の愛」の下では同じ「美しく、儚い、いのちあるもの」というタブーを恐れぬ心模様があるんじゃないかな。それが俳諧だろう。

「道行きやをみな狐火連れ回し 真波」
これも一種の心象風景なのだろう。狐火を連れ回すのは「をみな」であるというのが今時のジェンダーというタブーを越えているのじゃないかな。感性は一般論でどうにかなるものじゃない。なってはならない。自己の感性を信じることができなくて表現者とは烏滸がましいことではあるが、信じるとは今、ここに消えてなくなるという謙虚さが欠かせないね。一句は作者の不在証明でもあろうか。



〇12月14日の投句より

(承前)詩人は言葉や感動と出会わなければならず、時には余りにも人間臭い処まで降りて往かなければならない。そして仏弟子とは己れ空しく縁に生きるもののことであり、それは本来選り好みすることができない。仏弟子であり詩人である事の困難さ。何故か人はその辺の問題を余り心配してはくれないものだ。

僧であることの甘えがあるなら僧でないことの甘えもあるのではないか。俳人としての危うさに遊んでいることに変わりはないだろう。

作品の陰に隠しておくようなものを私は持ち合わせていない。虚に惑わされ、実に惑わされる日常。虚も実もこの世の実相であり、惑わされることもまた実相である。離れなければならない。それが表現者というものではないか。

真の巧者はその痕跡を残さないというが、虚実の問題で言えば、嘘っぽい、実っぽいものが頂けないということになる。嘘も徹すれば実が生まれ、実も手放せば嘘に包まれよう。技巧という方便もそこまで行けば影も残さず見事である。凭れる(甘える)のではなく、対象に徹し対象を離れる、定型に徹し定型を離れる。自己に徹し自己を離れる。その虚実の即き具合、離れ具合が読むものの心を豊かにするリアリテイーと詩情に溢れていなければならない。(この項つづく)

ということで虚実の離れ具合のいい句を。

「綿虫の記憶のやうに浮かび来る 栄太郎」

言うまでもなく「綿虫の」の「の」は「綿虫が」ということだが、ふっと現れて目に付くかと思えば、ふっといなくなり、飛んでいるようでもあり、舞っているようでもあり、浮ぶとみれば沈んだり、来るようでもあり去るようでもあり、思い出すようでもあり忘れるようでもあり、余り高くもなく遠くもない。まさに「記憶のやうに」ということかな。そんな綿虫の様子が窺える。写生の妙だね。


〇12月15日の投句より

(承前)己を無にした詩人の魂というものがこの国にはある。古来の優れた俳人、日本特質の詩人たちが遺した作品とは、最短定型の器にそのような「無の魂」を込めたものの痕跡であるとは言えないだろうか。

写生であろうが、象徴であろうが、造形であろうが、虚であろうが実であろうが、ただごとであろうがなかろうが、僧であろうが悪人であろうが、

「表現」とは畢竟自己に固執することではなく、自己を無にして世界を受け入れることではないか。或いは自己を世界へ開放することであり、それは己を無にしなければできない「離れ業」である。

つまりそれが俳人に名を借りた「自己の存在証明」或いは「不在証明」であろうし、「俳諧のまこと」なのであろうと思う。

一句を成すに甘えてはならない、凭れてはならない、「智者のふるまい」をしてはならない。自己に徹し自己を離れる「往きて還る俳諧のこころざし」だけが求められている。(この項つづく)

ということで、甘えがない一句を。

「新宿の冬の月我のみを射せ 緋路」
主観が強く出ていると言ってよいのだが、句跨りによる一句の勢い、のっぴきなさに俳諧の誠があるのじゃないかな。だれもがこのように冬の月を仰ぐだろうということに気付かないか。奇しくも季語の本意、本情を突いていると思う。
「新宿の月」は春夏秋冬仰ぎ見ることができるのだろうが、高層ビルの谷間に覗く冬月なればこその感慨、或いは社会への抗議、或いは愛なき街への淋しさがあるのだろう。
「我のみを射せ」とは如何にも危うい覚悟ではある。あるがままの自分を晒して生きたがっている人間の悲哀かもしれんけどね。私には甘えは感じられないな。


〇12月16日の投句より

(承前)蓋し、世に偶像崇拝ということがある。「自己」という偶像が最も始末に悪い。僧が特異なのではない。詩人が神に近いのでもない。俳人が上等なのでもない。ともにただこれ「にんげん」なるもののみだ。

生きるとは縁を生きることであり、予め何かが用意されている訳では決してない。予定調和の人生なんて妄想である。

閉ざされた自己の世界に「縁、他者、素材」を畏敬する挨拶のこころ、往きて還る存問の心など育ちはしないし、そのような者の作品が人の魂を癒すとも思えない。

詩人とは言葉以前以後の言うに言われぬ世界を表現するもののことである。俳人にもまたそのような世界を提示する感性と技量と寛容さが求められているだろう。(この項つづく)

ということで偶像崇拝から遠い句を。

「暗転の真中白鳥動かざる 美佐子」
暗転の真中に白鳥がいるとは理屈では到底割り切れまい。世に白鳥はどのようなシンボルとして存在しているのかな。作者には暗転と好転のどちらにも組しない、或いはどちらにも舞い上がる可能性として謎めいているようだね。「動かざる」とはそのような危うい可能性を見ているリアリストの眼差しが感じられる。

そのような白鳥を見る目はそのまま作者の生き方、往きて還る存問の心ではないんかな。そんな気がする。写生を越えながらも類まれなる写実となっているのではないかな。白鳥の存在感に迫って半端なくない?

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「追伸」

葉牡丹は空の弔ひどれもこれも

クリスマスローズ前略ごめんと愛されて

年用意親を失くしてこの方の

六道の辻となりたる霰かな

水洟やよしなきごとに身を入れて

追伸はなんだかうれし笹子鳴く

空晴れて明るき柚子の黄なりけり

暗黒の臍が驚く鰤起し

後略はなんだか淋し山眠る

雪国の姉より雪の夜の電話

埋火やいつかは忘れらるゝ身の


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「山ふところ」

ふるさとの山ふところへ松迎へ

炭焼の煙り名もなき奥山の

紙漉女水に仕へし肌して

剥ぎ終へし棕櫚には痛き冬の雨

注連を綯ふ膝に零れし藁の屑

割烹着の母は眩しき蒸饅頭

狐火を見て来たといふ褞袍かな

終日夜もすがら能登虎落笛

夜回りの月に礼して終りけり

寒柝の響き渡れる月の村





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