俳句という出会い

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野に下る都忘れの心あり 玉宗

秋口の原稿〆切で結社誌から「現代俳句鑑賞」なるものを依頼されていることもあって、余り気が進まないのだが、それでもこの際にわが俳句鑑賞の心持ちを確認しておくのも無駄ではないようにも思える。

以前にも書いたことだが、「鑑賞」とはつまり私の感性に響く作品を紐解き、謎解き、感応する作業なのであるが、それは一つの「出会い」である。作品との「出会い」それは「人柄との出会い」と言ってもよかろう。単に「人」ではなく「人柄」と言いたいという思いが最近特に強い。五七五の小さな構造物に作者の個性(人柄)があるとはどういうことか?実は私にもよく解らないのであるが、解らないままにそう多くもない作品との出会いを繰り返している。

作者の「色」「彩」「息使い」「何気さ」「心根」「生きる姿勢」といったものが「作品」という「言葉の世界」に光ったり陰ったりする。下手はヘタなりに、手慣れた人は手慣れたなりに、作品とは作者の品格が誤魔化しが利かない領域だ。五七五の最短定型詩には作者の「こころざし・俳句の誠・品格」が紛れもなく顕れる。言葉一つ、助詞一つ、てにをは一の細部に至るまで、作品の面構え、出来栄え、雰囲気、匂いのようなものを醸し出している。それらをひっくるめて「人柄」と言いたい。変な言い方だが、作品そのものより人柄を尊重したいといった思いが私は強い。作品の個性とか独自性といったような曖昧さを言っているのではない。そんなものは殆ど妄想である。

ところで、俳句との出会いとは言いながらも、わが「鑑賞」の実際のところは余り多くの作品に目を通していないことを告白しておこう。一人の作者の作品を一句見ただけで作者の「人柄」に感応するようになって久しい。例えば句集一冊をどうしても読みたくなる作者が私にはそう多くはいない。又、以前は目にも入らなかった作品の何気なさに痛く惹かれるようなこともある。作為や底意が見え透いて敬遠する事もある。理が過ぎたり、情が過ぎても、どうもいけない。言葉遊びも過ぎるのはついていけない。人柄との出会いと言いながらも私の感性に響いたり、投影されたり、光り輝く作品は、そこそこほどほどの人間らしさを備え、且つまた人間らしさを越えた領域であることに気付いたりする。

そのようなことも含めて、「鑑賞」とはどこまでも私の感性を免れない私自身との出会いでもあることに気づくのである。一句を深く、豊かに鑑賞する力量があるかどうかは、ひとえに鑑賞する私自身の詩的世界の質量が試されていることにほかならない。(あたり前なことではあるが・・)そういうことからすれば、昨今はやりの俳句添削教室みたいなものも、それは作者の作品でありつつも、添削者の作品であり得る可能性が高いとみるべきである。ものには程度があるのは言うまでもない。助詞ひとつの添削であっても、良くも悪しくも作品の詩的世界の展開ががらりと変化することもある。いずれにしても添削とか批評といったものも添削者当人の自己確認にほかならないことを肝に銘ずるべきである。しかし、それは俳句作品が作者一人の功績で自立していることを示しているのではない。類句類想は俳句のダイナモである。文芸とは畢竟、私一人の詩的世界の充実を志すものではあるが、俳句には寄ってたかって作品に仕立て上げられるといった最短定型詩の免れがたい宿命があるのじゃないのかな。俺の作品だ、だれの作品だなどと目くじら立てたり、拘ることの可笑しさ、哀れさなどを私なんかは感じたりする。著作権などと言い出すに至ってはとてもついていけない。換言すれば、俳句の身上は「あたらしみ」ということになる。

といようなこともあって、先生に身に余る鑑賞や添削をされていつまでも喜んでいるようでは、俳句のおめでたさの域をでないのではなかろうかと自戒を込めて思う訳。人様のことを論うまでもなく、作品も鑑賞や批評も、自家薬籠中の楽屋裏のものであるのだろうね。畢竟、自己を語っているばかり。飄々として且つ誠のあるの作品、人柄に出会いたい。


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「乳」

すぐりの実猿と呼ばれし昔あり

どちらかと言へばマザコン芥子の花

はち切れさうな山羊の乳房よ夏初め

母なくばこの世の終り閑古鳥

手に載せてみたき年頃青蛙

垂乳根のふところ深し南風

野にあればだれも捨て子ぞ花さびた

恋し恥かし乳のにほひや栗の花

母の胸に飛び込めるなら虱にも

今もなほ母がり茅花流しかな

峰雲やごくごく乳を呑む赤子



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「濡れて」

花とひらき紫濡れしあやめかな

湯舟へと菖蒲一束投げ込みぬ

あい吹くと島へ渡るや舳倉海女

郭公や薬を売りに山越えて

ふりさけみる茅花流しまなこ濡れ

善人とはとても思へぬ素足にて

蛞蝓の通りし跡や泣き濡れて

夏蝶の探しあぐねて来たるかと

尺取の計りかねては嘶けり

入水せし如くに牡丹濡れそぼち








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