無為の法

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薫風やきれいな空の下にゐて 玉宗

今日から六月である。
コロナ終息を祈願しての「大般若経理趣分真読祈祷」も一カ月を修行した。千日祈祷を目標とすれば先は長い。遅まきながら、「千日」とは約二年九カ月であることに気が付いた。一カ月が過ぎたのだから後二年と八カ月ということになる。口外までして今更引き返すのも口惜しいので続けるのではあるが、さてどうなることやら。本人は無理をしているつもりもない。毎日が勝負みたいな思いでお勤めをするようになったし、一日一日の掛け替えのなさに可能な限り寄り添うて生きていきたいという思いが強くなった。明日のことは分かるようでわからない。というか分かったところでどうにかなるようなものでもあるまい。というか、先のことは予想がつくということだけの話しである。そんな気がするという次元。

今、ここに、きれいさっぱり生き切る。それを即身成仏とは言うのではないのかな。それが仏弟子の本懐だろう。見栄を張っているのでも、無理をしているのでもなく、身も心もかるく諸行無常の人生を乗り切りたいという流れ者の一念があるばかり。だれに褒められたいとも思わないし、貶される筋合いのものでもない。無心に生きていきたいというだけの話である。理屈で割り切れない人の世、そして私自身のどうしようもなさを全うに生きてやろうというやくざにも似た志がある。政治に競争にも、あり余ることにも興味がなく、徒食の類にして、非国民、ある意味危険極まりない人間ではある。

さて、ご利益とは何か?宗門のご祈祷とは如何なる筋合いのものか?

望んでも、祈っても全てが叶えられない事を人は知っている。知っていても祈らずにはおれず、願わずにはおれない。望まずにはおれない、人間の性。宮本武蔵は「神仏を恃まず」と覚悟していたようだが、その返す刀で「神仏を尊ぶ」と語っていた。そこに天地の間に生きる人としての守備範囲を弁えていたもののふの誠を垣間見るのである。娑婆世界、その実際は「死んでも命がありますように」的な笑い話のごとき欲望の地平線を望む無理難題が多い。四苦八苦とは裏返せば笑っては済ませない欲望の業苦のことを言っている。

人はだれもが自分が一番大切なものであるには違いない。その実際のところはわたしの欲望が大切だと言っている。しかし、本当にそうだろうか?生きている私とは、計りしれない条件の下で生かされている反応態そのもののことである。多い少ない、勝ち負け、強弱、美醜、四維上下、前後左右、古今東西、差別区別はある。然し、それは「仮りのもの」であり、「相対的世界」での話しである。わたしのいのちは相対的な側面だけで生きている訳では断じてない。比較を越えたいのちの尊厳がだれにもある。なければならない。それは神仏ですら侵し得ない領域であろう。如何に況や人間社会に於いておや。神仏の方を向いて生きていこうと志すということは、つまり欲望を越えたところでぶれないで生きていくと覚悟し、目覚めることに他なかろう。

だれに遠慮もいらず、だれに傲慢になる理由もなく、わたしがわたしのいのちをまっすぐ戴くだけの話。持戒というも、善悪と云うも、今ここに生きているいのちの絶対性の上でのことである。そこには本来的に戒を侵す理由がない。悪を為す理由がない。自分持ちのものがない。一番大切なものは私という執着や括りを越えた領域。わたしというささやかながらも、疎かならない、一部でありながらも、抜き差しならない全体であるような存在。そのような次第の「ご利益」を今も生きている。そのような一大事因縁のわたしとなるために生れ、わたしとなるために生き、わたしとなるために死ぬのである。それを精進と言う。なにがあってもなんともない。日々これ好日、日々これ無事、日々これ貴人、日々これ御利益。その実相に目覚める。宗門の坐禅も御祈祷も、その真髄は般若波羅蜜なる無為の法をわがものとすることにほかならない。そのような行持によって得られる智恵を以てコロナ社会を生き抜いていきたいものだ。


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「手」

その手には乗らぬと鳴くや杜鵑

蝶渡る谷の深さや合歓の花

掬ひたる手にゆれ已まぬ山清水

麦藁帽子今日はどこまで行つたやら

暑いからと滅法辛きカレーかな

手を抜きしやうにも見えて夏料理

久闊を叙するに日傘畳みけり

手から手に渡るやうにも夏の蝶

これみよがしに咲いてみせたる茄子の花

どれもこれも母の手になる夏花かな




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「望郷」

海彦山彦いづれ呼び合ふ夏薊

初夏の海の調べに耳澄まし

ふるさとへ帰る術なき卯波かな

望郷や馬鈴薯の花咲くたびに

いつよりのふり向く癖よ雲の峰

端居せる妻を一人にしてをきぬ

ご無沙汰の葛饅頭に舌鼓

鬼灯の花や葉裏に青ざめて

行く末を思へば哀れ柿の花

笑はれて南瓜は花を咲かせけり



この記事へのコメント

2020年06月01日 21:58
ほんとに久しぶりですみません。
千日修行とはどのようなものかと、一か月前に遡って読ませていただきました。「ああ、毎日のお勤めの他にお経を上げられるのだな」という程度のことしかわかりませんでしたが。
敢えて口外して自分の励みにする(俗っぽい言い方で失礼ですが)というお気持ちよくわかります。私もよくそういう思いをしたことがありますから。私の場合、「ああ、言わなければよかった」ということが多かったかもしれません。
実はこちらをお訪ねしようと思ったきっかけが、このコロナ禍をお坊様(玉宗様)がたはどのようにお考えになるのだろうなどと。いえ、そんな真剣にではないのですがふとそう思った程度です。そしたらやはりそういう修行をなさっていました。きっと成就されることでしょう。
私も最初はこんな時こそ怠っている書道をと思っていたのに、やはりだらだらと過ごしてしまいました。
訳の分からないことを書いてしまい失礼しました。