迷信のススメ

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盆三日影絵の如く過ぎにけり 玉宗

お盆も近くなって、何やら気忙しくなってきた。
毎年のことではあるが、どうも盆の三日間は好きになれない。暑いさ中の棚経巡りがいくつになっても慣れない。今年はコロナ対応ということもあるし、厳しい残暑の中でということで熱中症にも気をつけなければならない。先日も人生で初めて軽い熱中症になって夫人の世話になったばかり。

世の中には「棚経」で歩き回るお坊さんを嘲笑とまでは言わずとも、理解しかねるといった御仁がいるようで、先祖供養とか施食とか来世だ地獄だなんだかんだと脅かすようなことを言うことへの拒否反応があるらしい。死者を弔い、冥界へ思いを寄せることに意味を見出せないらしい。そこには「冥界」に事寄せて、「現象界」への無理解、不寛容があるのではなかろうか。

そもそもがこの世に生まれ生きている事実は、いづれいなくなることを前提としてのわれらが存在条件である。それはもうほとんど一方的な約束事であり、存在すること自体にさえ意味がないくらいなべらぼうな話しではある。そんな人間同士であるわれらが、見たこともない行ったこともない「冥界」の話をしているとはいったいどういう筋合いのことであるのか、はっきりしているようでしていない。

「冥界」とは、あるものなのか、ないものなのか。あることで何か困ったり、反対に得をしたりするのか。ないことで怖かったりなんでもなかったりするのか。そして、人の人生を笑うことは構わないが、あったりなかったりすることでいったい誰がだれを責めたりすることができるのだろうか。

何度も言うが、仏道とはいのちまっすぐ戴く覿面の話である。その真っすぐさ加減とは如何なるものか。人は理屈だけで生きてはいない。理屈で割り切れない領域を抱えてなんとか生き延びていると言った方が真相に近いのではないのかな。「冥界」「供養」「霊」等々、そんなもの「迷信に過ぎない」と言い張る根拠でさえ、私に言わせれば「理屈」だけでは証明できない謎を抱えている。分かったふりをしているに過ぎない。或いはわからないふりをしているのかもしれない。

洋の東西、古今を問わず、現象として様々な「迷信ぶり」がある人間社会ではある。人類の存在意義は地球上にバベルの塔を建てるが如きではあるが、それらすべてを含めて、「空なるもの」の一瞬の光芒である。意義もなにもあったものじゃない。畢竟「空なる」のみと嘯いたところで何を得した訳でもない。永遠を夢見ることは構わないが、そこに人間の特等席が用意されていると思っている人は誰もいまい。

ひととき「迷信」を抱えて生きている人生もまた哀れにして、それ以上でも以下でもない。目くじら立てるような筋合いのものでもあるまい。「迷信」で以て争いをしでかし、悲劇を生むとしても、「迷信でない」人間たちの織り成す悲喜劇の光芒とどちらがまともなありかたであるか。一概に言えないし、五十歩百歩にも見える。「現実」という「迷信」もある。科学という「迷信」もある。「正義」という「迷信」もある。「進歩」という「迷信」もある。「富」という「迷信」もある。「名聞利養」という「迷信」もある。まあ、要するに、好きなように生きていけばいいのである。

「学問のススメ」を云ったのは福沢諭吉だったかな。それはリアリズムの宣言でもあっただろうか。仏道が徹底自己を究める道程だとすれば、それもまたリアリズムの宣言でもあるか。本来の自己は本来の自己のみが参究し、承当し、首肯し、成仏できる筋合いのものだろう。それは傍から見たり伺ったりすれば「迷信」と映るかもしれない。秘密に満ち満ちているだろう。「密教の密」は「親密の密」であるというのが、われらが道元門下にして菩提樹下の成道を信仰するいろはである。迷悟一如なるわれらあが行佛威儀であり、「ありのまま」に生きることを信奉している図も又、傍からは「迷信」に見える可能性は大いにある。道を究めることに吝かならず、一意専心の、只管なる生き様。仏の言いなり、仏に迷うて本望。そう意味では「仏道」もまた「迷信」ではある。

ということで、何が根本で何が枝葉末節なのかもあやふやで、自己を見損なう果てに「大衆ボケ」とも言うべき「迷信」に逃げ込んで顧みない社会。元も子もなく混迷する今の世にこそに「あるべき迷信」をススメル所以である。


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「空の記憶」

八月の空の記憶やめくるめく

名も知らぬ色鳥一羽来たるのみ

触れかねて萩を零れし胡蝶かな

ひぐらしや思ひ出せずに忘れずに

ふるさとにつどふはらから稲の花

この辺り能登も入口小豆稲架

丘陵の果ては能登沖花煙草

父母のあの世気になる残暑かな

追ひつけぬ帰燕の空のありにけり

色のなき風に遊べる蜻蛉かな



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「墓石」

炎天を来て墓石に蹲る

蝶のあと蜂が止まりぬ千屈菜に

甘えたこともなかりし父の墓洗ふ

湯の如き閼伽に孑孑立ち泳ぎ

白寿なる母の智恵借り盆用意

後ずさるやうにも流れ秋の雲

墓石の裏も墓石蝉時雨

子を寺に預けて帰る木樵虫

帰るさの風が好きなる蜻蛉かな

卒塔婆の傾く秋の夕暮れに

蜩や石も仏となる国の



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