食いしん坊さん!

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芋の葉も赤子包めるほどとなり 玉宗


 世に五欲と呼ばれる本能的とも言える欲望がある。色欲、食欲、睡眠欲、名誉欲、財欲の五つ。細かく分類すればもっとあるのだろうが、要するに生きていく力、ダイナモの要素であると言ってもそう目くじらを立てて叱られることもあるまいと思う。

私はどちらかと言えば「食いしん坊」と呼ばれて育ってきた田舎者である。平均的半農半漁の家に育ち、ひもじい思いをしたと言う記憶がない。内容はともかく、その辺は家族の暮らしを支えるのに苦労を厭わなかった両親の真心の賜であろう。働く姿は勿論の事、自分の食べる分まで子に分け与えていた両親の姿を今になっても忘れないでいる。

 記憶に残る小さいころの食事と言えば、海や山で採ったり作ったものが多かったということである。昆布、烏賊などの海のもの。じゃが芋、南瓜、玉蜀黍など山のものは主食に近い食材であった。自然からの戴きものといった感じ。
 漁師であった父と、畑仕事に精を出していた母。両親の供してくれる食材を食べるのが子供にとっては当たり前すぎる程のことだったに違いない。比べなければ、どんな親の料理も子供には御馳走である。分別がつき、文化的生活と云った風潮を目にするようになり、不平不満や偏りを持ちだしていったのだろう。
 それはともかく、六人兄弟の中では一番の食いしん坊であったには違いなく、長ずるに及んで「馬力がある」「溜まることはないだろうが、喰うには困らない」「お前は空気を食べても生きて行ける」といった私への評価を何度となく耳にしてきた。生きることの逞しさ、みたいなものがあるのだろうか。半生を顧みて、確かに転んでも只では起きないといった感がないこともない。それもこれも、両親の愛情から授かった生きる力なのかもしれない。
 繊細なのか鈍いのか、図々しいのか馬鹿なのか、われながら解らないところがある。そうではあるが、一方で「人間、一生の食べる分は生まれたときに決まっている」といった運命論的な見解も真に受けている。六十四年、馬力任せに生きてきて、あっちにぶつかりこっちでひっくり返るような人生。さすがに昨今は身心内外の諸行無常を目の当たりにする日々で、メインテナンス、手入れ、軌道修正、微調整、ランディング準備をしなければならんことに気付かされている。仏道は欲望に振り回されない生き方を志向するものだ。いつまでも食いしん坊、万歳とばかり云っていられない。





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「ままごと」

ふり向けば海の広がる盆の道

沖よりの風にそよげる萱を刈り

盆棚のままごとなしてしつらへり

死ぬる世にほとけの遊び魂祭

瓜の馬と向かひ合うたる茄子の馬

盆用意汗を流して終りけり

迎火の消えなんとしてまた熾り

水打ちし宵のしづけさ仏待つ

盆灯籠煌々として夜深み

一人になれば秋めく夜の灯しかな

月さして褥あかるき生身魂



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「食ふ」

烏来て突つついてゆく蓮の飯

落鮎の女盛りを味はへり

桃といふ初心なるものを手籠めにす

葡萄なる知恵の実一つ啄みぬ

へのへのもへじ煮ても焼いても食へぬなり

言はれたるままに喰うたる棗の実

枝豆を喰ふに聊か上の空

夢にまで出てくる里のきりたんぽ

町の子に通草を食うてみせにけり

嘗てありし松茸ご飯なるものが

秋思いま大福餅をたひらぐる

詩に餓ゑてかつかつ夜食とるばかり


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