面影の人

014.JPG

野に下り紫濃ゆき葛の花 玉宗


先日13日朝刊の北国新聞紙上に「板橋興宗禅師をしのんで」という寄稿文を載せて戴いた。以下のようなものである。私にしては分かり易い文章だったらしく、多くの方々から、感動やら感謝やらのお言葉をかけて戴いた。當に、弔句にある如く、「面影の人」なってしまわれたのであるが、生死一如。わが命がそうであるように、面影となってわが人生に寄り添う続けてくださることを私は疑わない。人を変え、人を育てるのは「出会い」であろう。だれもが初めての人生である。はじめての一期一会である。「いつも初心。いつも臨終」とは禅師様のお言葉であった。今までがそうであったように、これからもそうであるように、今ここに跡形もなくういのちを全うしたい。仏法という大きな世界で、無心に学ぶ歩みを続けていきたい思っている。


◇    ◇    ◇    ◇

 元曹洞宗管長・總持寺貫首で御誕生寺(越前市)住職の板橋興宗氏が7月5日、93歳で亡くなった。金沢市の大乗寺で板橋氏の十番目の弟子として教えを学んだ市堀玉宗氏(輪島市興禅寺住職)が人柄をしのんだ。

                 ◇    ◇    ◇    ◇

IMG_7853.JPG

   

 「今をまっすぐ生きる教え・板橋興宗禅師をしのんで」
                寄稿 興禅寺住職・俳人  市堀玉宗

 四月以来内灘の病院に入院、そして退院されて二週間ほどで亡くなられた。コロナ社会への対応もあり限られた方々だけに知らされ、お見舞
いも自粛を要請されていた。亡くなられるひと月半前に病室から戴いた葉書には、窓の外に広がる日本海の風景の果てにある能登に思いを馳せ
ていると書き記されていた。

 私が能登半島地震に被災した折も内灘の病院から御手紙を戴き励まして戴いたのである。能登への思い入れはいつも聞かされていた。越前武生の地に御誕生寺を開山するに当たっても、当初は能登の地を考えられていたのである。条件が整わず思いを遂げることは出来なかったが、「能登には日本の原風景がある。将来、能登の地が見直される日が必ず来る」と仰るのが常であった。
 
 副住職の特別の配慮で寺族と弟子と三人で亡くなられる一周間前に御誕生寺でお会いし、手を握り、お別れを覚悟のお見舞いをすることが叶
えられたことに感謝している。禅師は一生不離叢林という仏弟子の本懐を見事に生き抜かれ、最後は山内の修行者たちに見守られて息を引きとられた。

 公的には總持寺貫首、曹洞宗管長を勤められた雲上の方であることは百も承知だが、私にとっては昭和五十六年にどこの馬の骨とも分からぬ
若僧をお坊さんの世界へ導いてくれた法の親でもあり、人生の恩人である。曲がりなりにも、不出来ながらもお坊さんとして生きて来られたの
も板橋興宗という生みの親、育ての親があったればこそ。拘りなく今をまっすぐ生きること。闇の世界を自己を灯明として生きること。生死一
如。自他一如。いつも今ここに、ありのままに、大きな世界と共にあることを教えて戴いた。

そんな禅師様との思い出は尽きない。そのすべてがわが人生の宝である。その宝を活かすことができるかどうか。恩に報いることができるかどうか。骨にも身にも、生にも死にも銘じて人生を全うしなければならない。初心の大切さを失念することなく仏道を歩んでいきたい。合掌。
  
弔句  面影に色なき風の吹くばかり 玉宗



IMG_0075.JPG

「さながら」

朝はさながら窓辺の如し色鳥来

寄り添へばかりそめならず秋千草

引く波に盆の草々流しけり

盆三日紙と渇きし手向け草

昼はなんだか駅舎の如し秋渇き

素面ではとても入れぬ踊の輪

人を送りてもとの二人となる素秋

而して邯鄲の夢聞くばかり

夜はあたかも楽屋の如し虫の鳴く

窓開けて月を枕に眠るかな



IMG_1823.JPG


「もういいか」

朝顔や家族といふも一期なる

どうしろといふのかつくつくつく法師

鬼灯の赤きうれしき家路かな

かなかなと探しあぐねてゐるのかと

風船葛秘密の小筐からからと

秋海棠水のきれいな里に生き

放蕩の果てなる貌をいぼむしり

もういいかまだよと鵙の鳴く日かな

草薙の音にも風の秋ならめ

いはれなくても途中で帰るとんぼかな

ゆらめいて煽ぎて花の芙蓉かな

夕映えに飛んでみせたるきりぎりす

この辺はどの辺りかと石叩き

落ちてゆく鮎の行方や柄杓星

送行の荷を枕辺に眠るなり

この記事へのコメント