闇を生きる

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火宅の灯とどかぬ闇に鳴くちちろ 玉宗

一寸先は闇と言われます。諸行無常なる人生の歩みは、まさに闇を手探りして歩むようなもの。「闇」とは何か?わが思いを越えて展開する生死去来、時節因縁、諸法実相。それをしも人には「闇」と映るのではないでしょうか。

仏道は、そのような危うい人生の闇を歩む、一つの灯です。無常なる諸法の実相をしっかり見極め、学び、戴き、施し、歩む。それをありのままに生きる仏道人とは云うのです。仏の方を向いて生きて行くとは、一寸先の闇の世界を、自己が灯しとなって歩むことにほかなりません。然し実際には、一寸先ではなく、今ここが「闇」であり「光」であり、「闇」でもなく、「光」でもない、なんともないというのが真相です。実相の実相なるがままに生きる。そこには闇も光も本来ありません。

そのような実相を生きるいのちに絶望はいりません。計り知れないものだからです。自分持ちにしたところでどうにかなるものでもありません。せいぜいが極まりない愚痴に苛まれるのが落ちです。いま、ここに、息をしているいのちとはそれほど豊かで、深いものです。私の思いが捉えることができるほど「いのち」とは小さい世界のものではないことに目覚めなければなりません。

虫は闇をわがものとして精一杯鳴きます。虫にとって闇はわが天地です。人も又、火宅がそのまま仏国土ともなります。四苦八苦している今がそのまま「道」の現成です。そこには手付かずのなんともない「いのちの灯」に充たされています。仏道というも、そのような自己の灯明を真っ直ぐいただき、掲げて生きてゆくことに尽きるのです。  〈 法話集『両箇の月』より 〉



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「飴玉」

頬つぺたに飴玉一つ九月来る

面影を力に鳥の渡るなり

震災の記憶を今に草の花

秋めくやひと雨ごとに夢ごとに

大根蒔くさらさら月日零すかに

爽やかに思ひ出したり忘れたり

風神の尻餅つきし稲穂波

稲架となる竹を担いでゆくところ

能登沖に白波二百十日過ぎ

八朔のこよなき月の宴かな



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「浮遊」

コスモスのあかるき花の浮遊かな

野晒しも床の飾りや芒活け

無花果を喰うて賢くなれるなら

露草や見開いてゐて見えぬもの

窓といふ露けきものに囲まれて

小鳥来と床を這ひ出す母ひとり

秋めくと横を向いたる窓辺かな

生ぬるき花の吐息や酔芙蓉

鶏頭の火の手上るや一揆の地

奥能登のとある田舎の木天蓼酒

上弦の月を肴に冷し酒

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