偏見を越える一歩

コスモスを吹く風だれも咎めざる 玉宗
先日NHKテレビで日本で暮らしている黒人二世の若者たちが受けている差別、偏見の現状を紹介する番組があって、いくつかの気付きや反省させられるところがあった。
見た目で人を判断するなという言葉をよく耳にも口にもするのだが、実際のところ人は徹頭徹尾見た目だけで人間関係の対応をしていない。初めて会う人や通りすがりだけの人に対しては、まさに見た目だけで済ましているし、見た目からの情報が自己防衛本能と切っても切れないものであるとすれば一概に悪とも言えない。
私なども以前、八割は見た目で判断していると誤解を招きかねないお坊さんらしからぬ対応をしたことがあるが、実際のところ私と付き合ってくださっている方々の反応はどうなのだろうか。だれとでも垣根なく、ときには土足で相手の領域へ入り込んでいったりしている虞もなきにしもあらず。世の中の差別、偏見など問題ですらないと侮って生きている節があるのだが、先日のテレビをみて、そう単純なことでもないらしいことを認めざるを得ない。
本来眼に映っているもの、聞こえるもの、触っているもの、味わっているものは「そのもの」でしかない。いのちは「思い」だけで左右されてはいない。意味付けや好悪はそれから後の話しに過ぎない。どれもこれもみな「それそのもの」に纏わる煙幕のような代物だ。「思い」という分別は差別や偏見ともなる危うさを抱えている。予見なき建設的な人間関係を築きたいというのであれば、他者と触れ合うに際して偽りなき自己表現、つまりいのちまっすぐに戴く姿勢が欠かせない。
言葉一つでも惜しみ、貪るわれらである。煩悩に滞りたがるわれらである。差別や偏見は自己防衛であると共に、そのような狭い世界に陥るリスクがあることを忘れてはならないだろう。
身口意の三業とは人間の仏教的自己表現のツールを指していよう。在家出家、自力他力を問わず、自己を表現するということは他者に寄り添うという一歩である。自他一如が仏道のいろはである。見た目はその窓口であり、内外放寛し、身心をひらいて自己の世界を開示することが差別、偏見を越える秘訣ではないだろうか。拘りなく、眼耳鼻舌身意の六根の清浄なるままに今をまっすぐ、ありのままに、無心に、素手を以て戴くことが双方に求められる。
喰わず嫌いとは人間関係にあってもあり得る人生の落し穴である。障りなく、人のこころに飛び込んでいく清浄なる最初の一歩が試されている。

「能登素秋」
鳥渡る風に伏せたる晩稲かな
秋寂ぶと山鳩含み鳴くこと頻り
火をつけて淋しらの世の曼殊沙華
露草をいくつ数へて大人になる
紫蘇は実に遊べる子らの影もなし
土手を吹く風は楽しやゑのこ草
籾殻の山と積まれて能登素秋
いつになく小ぶりの栗を拾ひけり
籾殻を焼いて總持寺けぶらせり
山祇の鎮めて龍は淵に入り
龍田姫粧ひなして下りて来し
虎杖の花錆び秋も闌に
ポケツトに粘る飴玉野分過ぎ
落栗を蹴飛ばし俺の日が暮れる
秋夕焼鬣に燃ゑ移るべく

「老い」
逃げ回る空はまあるい稲雀
肩凝りがひどいな鳥も渡るらし
秋彼岸絆創膏の匂ひして
龍淵に膝にお水が溜まりけり
眼老いて露草にピントが合はぬ
蓼の花風がさ迷ひ始めけり
背負たる籠の中より虫の声
身に入みて欲望もまた色褪せて
天帝の投網なしたる鰯雲
風に生まれ風に老いたり草は実に
蜻蛉連れ帰らう遅くならぬうち
花野にて目覚めてみればあの世かな
刈り伏せし草の山よりつづれさせ
螻蛄鳴くと信じてよりの余生にて
明日知れぬ帰燕の空のありにけり
秋夕焼都落城したるかに
ひんやりと月の褥に眠るかな
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