結婚しているお坊さんは仏弟子じゃない?!

寄り添へるこころに通ふ草の花 玉宗
私もそうであるが結婚しているお坊さんを本来の仏弟子として認めたくない、という人がいることを知らない訳ではない。妻帯が現代の仏教の衰退を招き、未来の仏教を行き詰らせ、お釈迦様の教えを台無しにした似非仏弟子に溢れかえっている現代!という正義があることも、出家仏教など欺瞞だと言いたがっている宗教者がいることも私は知っている。
お釈迦様の頃から現代に至るまで、様々な仏教の変遷、変容があったのであり、二つとして同じ歴史的事実などなかったに違いない。それは仏教もまた人間の歴史であることの証左である。原理主義者も現実主義者も母のお腹を借りて娑婆世界に生れ落ち再生を賭けているには違いない。そうじゃないと言い張る者がいるならお目にかかりたい。
今をどう生きるか、如何にして世界と一体化するか、如何にして自己の命に落着するかという命題だけが普遍的アポリアとして引き継がれていくべきではないだろうか。それをこそ出家の志しと言いたい。煩悩を越えて自己のいのちをまっすぐ戴くことを志す。出家者とはその理想に生きる者のことだ。
独身でなければとか、男僧でなければその資格がないというのは如何にも差別的であるし、修行の実際をかけ離れている。まして、自力他力、出家仏教在家仏教云々などと垣根を作るにあってはとてもついていけない。私の命は私が引き受け決着しなければならないことに変わりはない。一人で生きても二人で生きても孤独な存在であるには変わりない。結婚していれば仏道を歩む同志がいつも傍らにいるというだけのことだ。
百歩譲って妻帯している私が仏弟子ではないとしてそこに社会的顰蹙を背負わされたり、社会的に仏弟子の資格を剥奪されたとしても、私が私として自己の命を生きて行かざるを得ない事実を如何ともし難いではないか。社会が私に代わって私の命を引き受けてくれるなんてことは永遠に在り得ない。要するに方法論の問題だ。
仏弟子が肉食妻帯を禁止されその存在条件とされていた時代、環境、場があった。教条的に大乗とか小乗とか北方、南方に仏教の展開があった。今も世界には肉食妻帯御法度の宗派僧団がある。信教自由の現代、どのような仏弟子に帰依するか、或いは私がどの宗派を選択するかは心もとないほどに自由勝手である。
確かに社会はお坊さんがどのように自らを律しているかと注目しているように見える。よりよきものを選別する眼力はどのような時代にもあるものと心得なければなるまい。妻帯しているかどうかが問題視されるのは、お坊さんの本物さ加減が求められているからのこそと受け止めたい。男女同権、ジェンダー尊重の対場から言っても当然そうなろう。
その点は反省するに吝かではないが、それにしても変革の可能性は自己にある、というのが仏弟子の行き方ではなかったか。現代のお坊さんが嘘偽りだとするのならば、自分が本物として生きていくしかないのである。世間の通念を頼んで修行の本質、命の実相が変革できると期待するのは如何にも仏教的ではない。そのような偏見を元に宗教離れの言い訳にするのは片手落ちに過ぎるのではないのか。私はそう思う。

「喰ふ・二十句」
秋思いま心ならずも食らひけり
木の実草の実喰ふに吝かならずして
梨に厭きそろそろ柿を食ひたがる
無花果を喰ふに歯応へなかりけり
食へさうで食へぬ木瓜の実なりしかな
棗の実ためしに喰うてみせにけり
栗ご飯さすがに四杯は食へぬ
藤の実のだらりとこれ見よがしなる
手にのせて腸めきし葡萄かな
立ち話のついでに柚子をもらひけり
零余子飯言はれてみればそんな味
ぶつければ痛い椿の実であらん
胡桃割る小槌がどうも見当たらぬ
金柑を鬼の居ぬ間に喰らひけり
さやけさに飯食ふことも忘れたる
くわりんの実拳骨ほどの大きさの
柘榴の実喰ふに触手を汚しけり
甘かろか酸つぱかろかと青蜜柑
林檎喰ふ動機が未だ不明なる
枕辺に秋果を置いて眠りけり

「しぐれしぐれて」
閼伽汲むや雁がね寒きあさぼらけ
秋時雨しぐれしぐれて鳴く鴉
老いてゆく月日の中の障子貼
且つ散りてものみな遠くなりゆけり
鼻唄の妻の機嫌や秋の虹
虫の音も途切れとぎれて紫蘇は実に
本物はなんだか武骨八つ頭
海に出て逆巻く能登の芋嵐
桜木の紅葉且つ散る窓辺にて
蟷螂の追はれ追はれて後もなし
平凡に生きるも難儀藤袴
水引のつんつん咲いて隙だらけ
月の出を待たずに寝ねり衣被
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