仲秋のこころ

露の世にひとり遺されわれは月の子 玉宗
秋を人生の途上で捉えるならば、ちょうど今頃の六十代かなと思ったりする。なんだかんだいっても人生の後半であり、初老という域に蠢いている。自省する時間が多い。灯火親しむ訳だ。
そんな秋の気配、自然の気息があり、否が応でもそんな自己の肉声、心模様を一句に留め置きたくなる。人生の謎解きの深みに嵌りそうな危ない季節であり、写生俳句の系譜に連なりたいと願っている身には、聊か観念先行になりやすい季節でもある。
そんな具合だから、能登のとんでもない冬のどうしようもなさより、秋の思わせぶりな重くれが紛れもなくあって余り好きな季節ではないかもしれない。
本来が自省型でない人間なんだろう。頭より手先、足先で生きようとするタイプかなと本人は思い込んでいるのだが、そうではありながらも得てして観念的な人間でもあることは、いつも身近にいるわが夫人の宣うところではある。
「お父さんはむずかしい」というのが彼女の口癖である。俳句に関しては掛け値なしの無知で無関心な人間ではあるが、わが散文、文章に関しては「もっと分かり易く書けないの」と手厳しい。
散文と韻文の違いを分かっているとも思えない節のある夫人ではあるが、然し、意外と的を射ているのかもしれず、わが韻文と己惚れている俳句も少なからず小難しい作品を捻くり出している虞が大いにあることを認めることに吝かではない。
句意明解な、さっぱりした子規のような俳句を口にはしながら、得てして教養先行、これみよがし、思わせぶり、物知り顔、的な月並句、類句類想句を量産して、われながら興覚めし、他人事のように情けない。
ということで、秋はいろいろと面倒くさい季節ではある。世間では収穫の喜びに沸くのであろうが、お坊さんでもある吾輩にしてみれば、額に汗して働かぬ負い目も重なってか、世を憚るに半端ない季節の到来である、仲秋の名月なんである。そんなひとりに拘る月の子の俳句を挙げてみようか。
ひとり淋しも野分たのしもわれは風の子
花とひらくひとりのいのちわれは草の子
露の世にひとり遺されわれは月の子
ひとりでも淋しくないぞわれは鬼の子
流れ星見しこと誰にわれは星の子

「喩ふれば」
秋簾だれも相手にしてくれず
焼石に水の暑さよ秋ながら
井戸浚ふついでの水を被りけり
五十年泳ぐことなく生きむとす
鶏頭の火の手上るを見過ごしぬ
あの山に木天蓼生つてゐる筈と
喩ふれば秋の風鈴かもしれぬ
相槌も打たずさくさく梨を食ふ
片付けて置かうか野分来る前に
砂浜にひとかたまりの花火屑
海の家跡形もなく月上る

「雀」
稲雀腹いつぱいに逃げ回る
念仏の里の味なる稲を刈る
雀らの騒ぎ見てゐる案山子かな
早稲刈るや借金取りの来ぬうちに
雀らを追ひつゝ落穂拾ひつゝ
ばら撒きしやうにも稲を喰ふ雀
秋めくや雀も腹の空く頃ぞ
雀の子逃げることより覚へけり
稲穂咥へ鎮守の森へ逃げゆけり
稲光魑魅のやうなもの走る
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