雲水

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雲のこころ水のこころや爽やかに 玉宗


「雲水(うんすい)」という言葉は「行雲流水」又は、「雲心水意」の意です。「雲衲霞袂」とう言葉もあります。雲を衣とし霞を袂とする。禅の修行者のことを「雲水」と呼びますが、行く雲流れる水のごとき自在にして拘りなき境地を理想とするところからきています。逆に、留まるということは執着するということに他なりません。身心の束縛、自縛を解き放つこと、それが仏弟子の面目であり、真の自由人たる所以です。

雲は空を流れて滞ることなく水も瞬時として留まることなく、いずこともなく消えてゆく。時々刻々、さし障りなく今を生きていく。身も心も投げ出して無常に徹するという「清浄行」が「行雲流水」の本質として貫かれています。

ところで、「雲水」としての生き方を困難にさせるもの、命の自在さを妨げるもの、それは何か。北陸が生んだ哲学者鈴木大拙の言葉として伝えられている次のような示唆があります。「真の自由とは何か」という問に対して大拙は、肘を指して屈伸させて次のように言いました。
「肘に関節があることによって私は自由に腕を動かすことができる。」

命には生老病死という関節や無常という「骨」があります。関節や骨がない五体など考えられません。それはすでに五体を成していません。生老病死や無常という「関節・骨」があることによって私は命をして命ならしめています。命は本来的に自在であり、「私」の執着を離れています。雲水のこころ、それは仏弟子としての初心であり、全てである所以です。  〈 法話集『両箇の月』より 〉



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「月・二十句」

月さして仄かに白し蕎麦の花

飯粒を踏んづけし夜の月見かな

片付けて置こうか月の出る前に

仕舞ひ湯の妻の音する月の暈

影曳いて路地ゆく人や小望月

凪わたる浦のしづけき月夜にて

猫は泣き鴉の笑ふ夕月夜

サロンパスを貼り換へゐたる今日の月

地のものを神に供へて月祀り

たまゆらの月の回廊夜の波

月更けてしづけき夜の老い二人

十五夜の妻が頻りに帰りたがる

呑み干してみれば胡乱な星月夜

月といふ今が昔のやうに見え

仲秋の月に帯せしものもなし

裏口の鍵穴にさす月明り

月よりの風かと思ふ野分かな

夢路いま月の夜空を滑り落ち

垂乳根の月の褥の嵩低き

真夜中の月見て用を足しにけり




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「色」

色鳥を詩篇のごとく見失ふ

秋澄みて山巓遠くなりにけり

コスモスにあかるき風の吹く日かな

乙女さぶ妻を先立てゆく花野

山にゐて家を思へる野菊かな

釣船草しとどに濡るる山の雨

色のなき風に褪せゆく秋薊

空蒼く雲白く山粧ひけり

木天蓼の峠に仰ぐ実なりけり

蔓引けばほろほろ落つる零余子かな

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