お寺の公益性問題

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落葉掃くことより習ひ始めけり 玉宗

 仏教界で公益性の問題をめぐる議論が盛んになったのは、行政による公益法人制度改革があったからで、この制度改革が宗教法人にも及び、何か公益にかなう活動をしていないと「公益性に欠ける」とされ、宗教法人課税の議論が必ず出てくる。嘗て『アエラ』誌上で洗建氏がこの問題について次のような注目すべき意見を述べている。

〈わが国では非課税と公益性が関連づけられ、「非課税の根拠は公益性」という考えが定着している。しかし、課税と公益性は本来関連していない。外国では営利法人と非営利法人という分類が一般的で、前者は利益を分配するが、後者は剰余金が出ても翌年度に繰り越すので、課税対象とすべき収益がなく税金がかからない。したがって、宗教法人は公益性があるから非課税なのではなく、非営利性ゆえに非課税なのである。しかしわが国では「非課税なのだから公益的でなければならない」といった強迫観念が定着している。〉

〈もちろん、信仰からくる動機で公益的な活動をすることは評価されるべきである。ただし、課税されるかも、という外圧によって、どんな活動、貢献をすべきかを探している現状は本末転倒であり・・・宗教を歪め、その特性を殺してしまう危険性をはらんでいる。〉

「公益性」ということで私が思うのは、道元禅師のお示しである「修証義」の中の一節でもある「治生産業もとより布施にあらざることなし」という言葉である。政治経済、司法行政、商業農業工業、一般社会の万般の行事も又「布施行」であるというのである。「公益性」と「布施行」を全く同一であるとは云えないかもしれないが、「私無く、公的なものに尽くす」という意味では同じ真心の世界の話しではなかろうか?

課税も又、公的なものであり、宗教界といえども応分にその「布施行」を積まなければならない。言い方を変えるならば、どんなに小さな営利会社であっても大いに「社会貢献」している現実があるということだ。「公益性」なるがゆえに「非課税」という根拠は不十分であると言わざるを得ないのではないか。というより、宗教における「公益」とは「数量」に換算できたり」、できなかったりするものではない。

国家が宗教法人に非課税の免罪符を与えたについては色々歴史的な経緯があるのだろう。課税の形態も時代と共に変わってきているのではないだろうか?そういう点から云えば、洗建氏が指摘する「非営利法人」なるがゆえに「非課税」というのは、宗教活動の無償性、活動が手段であり目的であるとの趣旨にも添うものではないだろうか。平たく言えば、お坊さんは儲けてはならない、貯めこんではならない、商売してはならない、という戒律に添うものでもあるということだ。

 今後、宗教本来の活動と宗教法人との線引きが厳密化していくであろうという指摘がある。葬祭業者と僧侶とのよろしからざる関係が噂になって久しい。やはり、ここでも、お坊さん自身の人間性、宗教性が問われている。

拝金主義が幅を利かせている現代にあって、お金にも権威にも偶像にも頭を下げない、お寺という非課税の領域、浮世離れした領域があってもいいのではなかろうか。命に関わるものすべてがお金に換算できるというのも、人間の傲慢さ、愚かさ、錯覚以外のなにものでもないと思うのだが。

因みに、俳句界にあっても「公益社団法人」化された経緯があったのではないかな。「俳句の公益性」と俄かに指摘されて戸惑った記憶がある。能登の田舎俳人の道楽に公益性を求められても・・・。俳人も仏弟子も共に人間であり、公的にして私的な存在である。そういう意味からすれば、仏道も俳句も表現の多様性の意匠であり、公私に亘る不易流行の本筋から逃れられないのかもしれないね。要するに、個人の人間性が問われているのだろう。



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「久闊」

朝寒き土間の竈に火を熾す

窓を打つ雨音硬し冬隣

手に受けてぬるり冷たき滑子かな

舌先の少し焦げたり杜鵑草

久闊の願つてもなき新走り

紅葉蛸磯の礁にしがみつき

嫁に入る狐華やぐ照紅葉

鳴き鳴きて身を焦がしたるちちろかな

落日に燃え上がりたる秋の蜘蛛

月影にゆく当てもなく残る虫



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「留守番」

神無月ときどき妻がゐなくなる

紅葉見に行つて来ますと紙切れが

且つ散りて一人暮らしの懐かしき

居留守には持つて来いなる秋簾

留守番の昼餉栗飯温めて

冷蔵庫に鯖の味噌煮があつたけな

一人居のつまらぬ秋の昼寝かな

鴉来て寡を囃す秋の暮

お土産に機嫌直せり秋灯

ご褒美に月の湯舟を独り占め

妻なくばこの世の終り十三夜






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