生死に向き合う

 

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足袋穿いて死者に一番近くをり 


私どもは時に隣人として、時に親族として「死者」と向き合うことがあります。お坊さんは一般の方々より「死」に関わることの多い立場かもしれません。正確には「死者を送る」「死者に寄り添う」といった方が実際のところです。

「死と向き合う」とは「死ぬゆくものと向き合う」ということでもあり、それは「死」に代表される人生の「生老病死」という「無常なるもの」に向き合うことでもあります。「無常なるもの」それは私の思いを離れた因縁の様子そのものです。だれも私に代わって私のいのちを生き、病んで、老いて、死んではくれません。そういうことからすれば、「わが生」を有り難がるように「わが老い、わが病、わが死」も又有り難がいものではあります。

人は自己の正体を受け入れるのに、「生」そのものではなく「生の享楽」つまり「欲望」の方ばかりに比重がかかり過ぎてはいないでしょうか。人生は本来「いのちの全うさ」と向き合わなければなりません。共感しなければなりません。「欲望」は「いのちの全うさ」のすべてではありません。偏りのない人生の在り方が試されています。

仏道は「いのちの一貫性」という大所から人生を再生しようとするものです。「執着」や「偏り」を先立てない所以です。「無常なるものという日常性」の只中であるべき「いのちの全うさ」を求め、そんな人生の一大事に逃げることなく向き合っていきたいものです。

〈 法話集『両箇の月』より 〉



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「光陰」

暁の空の堅さよ秋燕忌

日当たりていよよ燃え立つななかまど

もみづるや光陰淡くまぎれなく

秋の日やほのぼの老いてしまひけり

つくづくと臍に穴ありうそ寒し

間引菜を茹で上げてみてこれだけか

色鳥といふ光陰を見失ふ

死ぬる世の今どのあたり秋惜しむ

冬隣り空はしづかに張りつめて

夜になれば腹の虫鳴る秋思かな

あれこれと明日をも知れず夜長妻


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「秋寒」

早暁の仏に仕へ肌寒し

生きてゆくうすら寒さよ人の世の

そろりそろりと青き首出す大根かな

すれ違ふそぞろに寒き顔をして

毒茸の傍らをゆく人の声

ゆきゆきて雁がね寒き山河かな

秋時雨しぐれしぐれて寒かりき

松手入れ空を宥めて終りけり

眠さうな山に囲まれうそ寒し

鎌祝ひ仏間奥の間開け放ち

身に入むや失せたる夢の数知れず

枕辺に灯し引き寄す夜寒かな


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