馬の耳 

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能登沖を走る白波小豆稲架 玉宗
 

「馬の耳に念仏」という言葉がありますが、禅的解釈になると少し様子が違ってきます。

人間は眼耳鼻舌身意の六根を持ち合わせている命の反応体です。音は私が分別する以前に耳に入っています。ものは私が意味付けする以前に眼に見えています。五感はすべて私の分別や意味付けや見識や意見や理屈や感想や好悪や選択や着色以前に反応しています。「色即是空、空即是色」とはそういうことです。

禅的生き方とは、生きながら「分別以前のいのち実物」を戴き、第一義として生きることです。禅僧の素っ気なさ、ぶっきら棒さ、木偶の坊さ、木に鼻をくくったあり様の真相には「木人歌い、石女立って舞う」といったいのちの素なる輝き、柔軟さ、躍動感、解放感が予定されています。

「馬の耳」それは、聞こうと構えるのでもなく、先入観を以って耳をそばだてるのでもなく、如何にも人間らしからぬ「馬の耳」を持ち「念仏」という「教外別伝の声」を聞き入れ、そして聞き流すといった拘りのない「無分別の智」が期待されているのです。

煩悩に惑わされず、いのち真っ直ぐ生きて行こうという姿勢があるということです。いのちに有縁も無縁もありません。自力も他力もありません。有縁無縁、自力他力をわがものとして、ときに「馬の耳」だったり、ときに「人の耳」だったりするというだけのことです。それもこれも「仏法」という広大無辺なる領域でのことです。   〈 法話集『両箇の月』より 〉





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「抜きん出て」

土手を吹く風を聞かばや秋ひとり

引き抜きしゑのころ草とどこまでも

ゑのこ草かもじ草とて競ひ咲き

神去出の風吹き渡りひつぢ草

曼殊沙華己が火炎に燃え尽きて

抜きん出てみても背高泡立草

缶蹴りの鬼が泣き出す柿の秋

団栗や競ひごころも今はなく

命ひとつの声を限りや虫しぐれ

母が迎へに来るぞままこの尻ぬぐひ

柿も真つ赤になつたことだしもういいか

花時計釣瓶落しに追ひつけず




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「つるり」

秋の蝶するりと風をかき分けて

踏み込めぬ草の丈にも秋深み

俳諧のだらりと垂るる糸瓜かな

頬つぺたに飴玉一つそぞろ寒

龍田姫はらりと山の裾捌き

先生の胸にひらめく赤い羽根

衣被つるりと不甲斐なき身かな

新藁を買ひに倶利伽羅峠越え

食ひ足りてことりと重き稲雀

よく泣いてからりと晴るる紫苑かな

故郷の縁者へ送る今年米

とろろ汁ずるりと胃の腑まっしぐら

奥能登の塩をひと振り零余子飯

枝豆やさらりと嘘を吐く女

先を急ぐ水の流れや秋の暮

温め酒とろりと夜の帳かな

濁酒や忘れてしまひたきことも



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