人間らしさもいいけれど

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随分と生きて来たよな芒かな 玉宗
   

「つまづいたっていいじゃないか にんげんだもの」

詩人にして書家の故・相田みつを氏の言葉である。相田氏の詳細な生涯は存知していないが、死後その作品を御長子が美術館などに所蔵し、著作権管理をしているらしい。

私は以前からこの言葉にどこか引っかかるものがあることを誤魔化せない。それは「人間らしさ」への甘え、免罪符を強要しているような響きを感じてしまうからだ。おそらく、それは私の個人的偏見・感受性によるものである。もっと言えば、そんなことは言わずもがなで、殊更に事挙げするに賛同しかねるといったところか。「人間らしさへの甘え」それが取りも直さず、私の中に陰に陽に巣食っていることを私自身が厭というほど知っている。因みに、この言葉は以下に続くらしい。

 くるしいことだってあるさ 人間だもの
 まようときだってあるさ 凡夫だもの
 あやまちだってあるよ おれだもの
 愚痴をこぼしたっていいがな
 弱音をはいたっていいがな 人間だもの
 たまには涙をみせたっていいがな 生きているんだもの 

 それは、そうだ。私はそれを否定しない。否定はしないがそこに胡坐を掻いて生きていこう、という逞しさを持ち合わせていないのだ。私は人間らしさを忌避し、見切って出家したようなところがある。端からは無理をして、痩せ我慢をして生きているように映っていることであろうと思う。柄でもないのにお坊さんなんかして、いい気なもんだ。というような声が聞こえないこともない。

 然しながら、私にはどういうわけか「人間らしさ」に流されるのが我慢ならないというところがある。お坊さんが在家より偉いとかどうだとかという問題提起ではさらさらなく、視座を換えて言えば、在家のままでまともに生きて行く自信がないのだ。
 その実、生身の私はご覧の通りのいい加減なお坊さんであり、言う事と、している事と、理想している事との乖離が甚だしく、その矛盾力の凄さたるや、神様に見放されたるが如きである。

 お坊さんであることに胡坐を掻いているのかもしれないが、社会人として「落ちこぼれ」であると見放されてもいいとは弁えている。徒食の類であることは間違いなかろう。一端国難が起これば非国民のそしりを免れられない自信はある。

 それにしてもである。「おまえはどっちを向いて生きて行くんだい?」と問われて、痩せ我慢をしてでも「仏の方を向いて」と言いたい。自然であること。ありのままであること。無心であること。流れのままに身を捨てて生きること。それ以外のどこに自己の安心を求めていいのか、私にはわからない。変な言い方だが、お坊さんであることで、なんとか人並に、まともに生きていられる、といった節が大いにある。
 お坊さんをしたっていいじゃないか。痩せ我慢したっていいじゃないか。人間だもの。これも又、人の世の実相である、というより、人間らしさの一側面であろうと思っている。

 相田みつを氏は決して「人間らしさ」に流されて生きた方ではないと思う。精いっぱい努力し、研鑽し、現実に向き合い、七転八倒した人生であっただろう。その中から生まれた詩作品なのであり、魂の言葉なのである。彼自身も又、人の見えないところで痩せ我慢をし、自己の「人間らしさ」と格闘していたに違いない。だからこそ、彼の作品は胸に響き、心に沁みるのであろうと思う。


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「音譜」

能登や今小豆も稲架となりにけり

釣船草蜂が覗いてゆきにけり

コスモスの風にゆらめく音譜かな

山里のこれよりひらけ柿の秋

名も知らぬそれは小さき草の花

焼き上げし骨の白さよ花茗荷

日陰れば言葉少なし実山椒

裏門を出でてほどなく韮の花

くわりんの実未生以前の固さなる

水引の一直線に花つけて

名にし負ふ紫濃ゆき式部の実

もみづるやわが老いらくの色褪せて

紅葉寺人の気配のなかりけり

次から次と土の中より芋の子が

千鳥足二十日の月を見て帰る




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「あつといふ間」

風触るゝほかはすべなき尾花かな

サフランの花の前略御免にて

露けしやあつといふ間に年老いて

蟷螂が取り残されし貌をして

先生はときどき他人蔦紅葉

蛇穴に遊びもならぬ草の丈

秋天に招かれてゆく遍路かな

竃の灰に温みや杜鵑草

主なき家の棗と聞くばかり

丈違へ秋明菊の乱れ咲き

日は月に現の証拠や花は実に

開け放つ納屋に差し込む秋日かな

虫籠を月の面に置き忘れ



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