畢 竟 



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露けさに眠るも僧となりしより 玉宗


『正法眼蔵随聞記』の中に、道元禅師ご自身の行状回顧として次のような逸話が記されています。

ある日、教えて言われた。
わたしが宋にいた時のこと、坐禅の道場で古人の語録を読んでいた。
その時、ある、四川省出身の僧で道心あつい人であったが、この人がわたしにたずねて言った。
「語録を見て何の役にたつのか」
「国に帰って人を導くためだ」
「それが何の役にたつのか」
「衆生に利益を与えるためである」
「畢竟じて何の役にたつのか」と。云々。

経典語録は「月を指す指」であり、「画に描いた餅」です。「指月」も「画餅」も「道」とは切っても切れないものですが、「道そのもの」ではありません。「畢竟じて」とは、詰まるところ、のっぴきならないところ、嘘いつわりのないところ、人の為だとか、社会のためだとか言っているお前自身そのものは、いったいどうなんだ!と問いつめているのです。

ここから言葉に窮した若き日の道元禅師の修行への深化が加速されました。本来の自己の真相に拘ったということ。その後、禅師は一生参学の大事を了畢し帰朝されます。

それが今の曹洞宗の源流です。云うまでもなく、行者が行者として仰がれるのは当に当人が「道」の体現者であるからです。「経典語録」の解説者だけでは済まされないのが「人生の一大事因縁」たる所以です。  〈 法話集『両箇の月』より 』



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「漸く」

朝な朝な漸く寒き枕上

薪小屋に風の吹き込む寒露かな

草陰の水涸れ初めしさゝ流れ

野の風に吹き消されたる彼岸花

来てみれば紅葉且つ散る墓域にて

食ひ足りて海に入りたる雀かな

蛤や雀のころの口閉ざし

きらめいて日照雨過ぎゆく茨の実

つはぶきのひときは光るゆふまぐれ

さ迷へる夜風に律の調べあり






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「これよりの」

柿の秋腹を空かせて帰る子の

亡国の甘き無花果名はエルサレム

これよりの落葉と思ひ掃き初めし

髭を剃る鏡くぐもる紅葉かな

蟋蟀の貌がどうにも思ひ出せぬ

掃き出され慌てふためくいぼむしり

蛇穴に入らむとして僧に会ふ

藪枯らし噂話に花が咲き

にほひ立ち金木犀と知られけり

世の隅に老いてしまへりうそ寒し

肩凝りがひどい雁がね寒きかな

稲架日和咽喉が乾いてしやうがない

点々と墨を零して杜鵑草

水引のつんつんつんと花つらね

村の子を攫ひに来たぞ芋嵐

まだ智慧の足らぬとばかり喰ふ林檎

味噌汁に生きた心地や秋の暮

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