大般若経転読 


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絶望に何かが足りぬ糸瓜かな 玉宗

大本山總持寺祖院では毎日朝のお勤めに大般若経六百巻を転読しています。そこには「空」の真理が様々な角度から何度も繰り返し説き示されて、あたかも私どもの煩悩の根深さというものを教えているもののようでもあります。

私には私の世界という有難くも厄介なものがあります。絶望はそのような私の世界の観念の行き詰まりであり、それは余りにも私的なもの、つまり良くも悪くも本来的に身勝手なもののようです。然し、諸行無常、一切皆苦は動かしがたい存在の前提です。それは本来的に私の執着を離れています。「度一切」なるものです。

私は私の「いのち」に絶望することはできません。「絶望」はどこまでも生きている私の「思い」の様子です。行き詰っているのは「思い」です。いのちそのものは一度も迷ってはいません。あるがままの世界は、自己へのこだわりや執着を捨てた彼岸にありましょう。私がいくら絶望しても、或いはいくら切望しても、世界はなるようにしかなりません。私という存在は世界と一体であるからこそ思い通りにならないのです。

「空」とは「縁起の真相」と言い換えてもいいものです。毎日般若経を転じていると、この世の真相を受け入れるまっさらなものの見方が求められていることに気づかされます。煩悩の向こうにある拘りのない世界、生き方、ものの見方感じ方が私の本当の姿、生きる力なのかもしれないと諭されるのです。絶望もまた執着であることに気づかされるのです。  〈 法話集『両箇の月』より 〉



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「チュ」

見渡せば雁がね寒き山河あり

蛤を焼けばチュと鳴く雀かな

松茸の見当たらぬわが茶碗蒸し

且つ散りて俄かに宵となりにけり

林檎食ふにはいい年をしてしまひけり

肩の力抜けば蜻蛉の止まるらし

薩摩芋に目がなき嫁でありにけり

豆稲架やここも念仏一揆の地

秋の蝶お前も明日が恋しいか

何気なく生きるも難儀藤袴

縄跳びに攫はれてゆく秋の暮



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「一草忌」

朝に夕に妻の機嫌や杜鵑草

ぽんぽんと弾けるやうに吾亦紅

曼殊沙華跡形もなく土手残り

藤袴光陰淡くありにけり

ご法事の酒にほろ酔ひ一草忌

鴉啼いてわたしも柿が食ひたい

秋風にわれは銭乞ふをのこにて

椎茸の中の一つが捻くれて

竜胆や山に恋せし男にて

蝶となり解き放されし花野かな

山の端に日の落ちかゝる芒かな

湯上りの熱り冷まさん庭の月


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